第3章〜桜都〜




「うわあ!! 綺麗な桜〜」

私は歓喜の声を上げた。

「綺麗ね〜……」

萌も久しぶりに反論無しで素直に感動しているみたいだ。いつもこうならいいのにね。

「ちょっと……何一人でぶつくさ言ってんのよ?」

 萌のツッコミは半分(いや、全く)無視して、私は「桜山荘」行きの送迎バスが来ないかと、辺りを見回していた。

 そう、ここは「桜山荘」がある山の麓である。ここがどんな場所かと言えば、山が一面、桜色に染まったと言っても過言ではないような所だ。

 桜都という駅からしばらく歩いていくと、急に古都に入ったような感覚に陥る。

 ふと気付くとそこは、まるでお伽話の世界へ来てしまったかのような幻想的な雰囲気を纏い、一瞬立ち止まってしまうほどだ。桜都という名が相応しい場所であった。

 

 まあ、そんなこんなで現在に至る。

周囲には桜見に来たのか、思っていたよりも多くの人々が集まっていた。しかし騒ぐ者は少なく、ただ純粋に花見を楽しんでいる者が多いようだ。

私たちは今、バス停と思われる前にいるのだがかなり古い目印なので定かではない。

「それにしても本当にすごい桜だよね〜。夜桜も綺麗そう……あぁ、夜桜お七を歌いたくなってきた〜。桜、桜……花吹雪ぃ〜」

「アンタ、馬鹿じゃないの!?」

「…………」

萌め……お前は冗談すら分からんのか!! これだから嫌だね、頭固い六法全集女は。

ああ、もちろんこんな萌なんて無視してやったさ。この後来るであろう、強烈な肘打ちに警戒しながら……。


――ガギンッ!!!

「ゴフゥッ」←吐血音


 私は意識がなくなっていくのを感じた……。


――バシンッ!!


「ぶはぁっ!!?」

萌の平手打ちでようやく現実に帰ってきた私は、萌の手形がくっきり残っているであろう頬を擦りながらバスを待った。改めて思うが、萌の暴力もここまで来ると「怪人」並みだ。というか、酷い仕打ちだ。むしろ虐待だ……。しかし、また何か言ってややこしくしたくないので、渋々と甘受した。

――プップッ〜〜

 クラクションが鳴った。見るとバスが来ている。しばらくすると、中から旅館の人らしき人物が降りてきた。

「ええっと……岡野様と津久井様でございますか?」


年は、六十はいっていると思われる好々爺……というイメージだ。でも、どこかよそよそしく落ち着きがないように見えるのは気のせいだろうか。

どうやら迎えに来てくれたらしいが……。


「はい、そうですけど」


 萌が答える。相変わらず、世間体だけはいい。

 しかし私はふと思った。


(なんで初対面なのに、私たちだって分かるわけ?)

 私たちの周りには少なくとも十人程の人々がいる。その中から私たちだって分かるなんて、ちょっとおかしいんじゃないだろうか。


 探偵の血が騒ぐ。

 
 こういう場面に立ち至ると、どうしても突っ込みたくなるから困る。


「あの、なんで私たちだってお分かりになったんですか?」


 萌が「また余計な事を……」といった表情を浮かべている。でもこればっかりは躊躇していられない。さあ、何て答える?


 私は好奇心いっぱいの瞳で好々爺を見た。案の定、返答に困っているようだ。

 しかし、好々爺は突然吹き出した。


「あっはっは! こりゃあ失礼しました。確かにお嬢さんの言う通りですな。でも一発で当たったのは偶然だったんですわ。若い二人組みのお嬢さん方と伺っていたもんだから、二人組みのお客さんに声掛けてみようと思いましてな」


「はあ……そうだったんですか……」

 なんだ。ただの偶然か。折角事件っぽい匂いがしたと思ったのにな〜……などと、少し落胆してしまう。まあ事件なんて起こらない方がいいのだ。

 でも何か引っかかる……。


私が残念がって肩を落としていると、萌がすかさず「連れが失礼な事言って、本当に申し訳ありません。四日間お世話になります」と、頭を下げた。全く良いとこ取りだ。

「いえいえ。ではお車の方へどうぞ」

そう言うと好々爺はそそくさと、バスへ戻ろうと私の横を通り過ぎようとした時だった。

「――お嬢さんならきっと大丈夫ですよ……」

「えっ?」

空耳だったのだろうか? 確かにあの好々爺が言ったように思えたが……。

一人考え込んでいると萌が「早くしてよ!」と怒鳴ったので、急いでバスに乗り込んだ。



 どうやら先客がいるみたいだ。

































「よお! 久しぶり」




 乗ってすぐに、明るい声が聞こえた。

 そこには、懐かしい顔が三つ並んでいる。

 須山 吉文、益子 隆、永田 武の三人だった。

「久しぶり! 元気だった?」

 すかさず返事をしたのは萌だった。またコイツはいきなりおいしい役(?)を取りやがった。まあ別にいいけどね。

 ちょうど須山たちの隣が空いていたので、私たちはそこに座ることにした。

 萌は座った途端、まっすーこと益子 隆と、永田 武と話し始めた。私は頭を窓ガラスに傾け、外を眺めていた。

 すると、須山が話しかけてきた。

「久しぶりだな、本当に」

 キャンディーを差し出しながら、須山は笑った。

「ありがと。ホント、久々だね」






――須山 吉文、23歳。



 私と萌の高校時代の部活仲間であり、友人だ。
 
 人当たりの良い、いわゆる八方美人タイプの優男で、女の子からは結構モテていたと思う。

 しかし、精神的に脆いところがあり、そのことが原因で過去恋人と何度も破局。

 そんなこともあってか、私の中で「須山=ヘタレ」という方程式が出来上がっている。



「あんまり変わらないね、須山たちって。まっすーも、永田君もさ」

「そうか? お前と津久井だって、変わってないと思うけど?」

「そうかな〜。ま、あの頃よりは年取ったってだけか」

「そう言えば、ちょっと老けたな。ほら、お肌に皺が――」

――パシンッ

「痛っ!」

「あらごめんなさい? 虫が止まってから思わず叩いちゃって」

「……」


 失礼な須山のことはこの辺にしておいても、本当に久しぶりだ。第一、同窓会でもなきゃこの三人と会うことなんてなかっただろうし、同窓会は良いものだと実感する。


 そんなこんなで残りの旅路を、私は須山とお互いの近況を語り合うことにした。

「で、今は何やってるの?」

「俺? 俺はね、中学教師☆ ちなみに担当は国語vv

「……え”」



 私は思わず自分の耳を疑った。須山が教師ぃ〜!? まずいでしょ! それは……υυ だって……コイツのエロさは半端ないって……!!

 私は、高校時代の様々な事を思い出し、思わず身震いをした。



「ほ、本気で言ってるの? まさかあんた……生徒に手を出してるんじゃ……!?」

 私が疑惑たっぷりの目で見たせいか、須山は必死で弁解する。


 「な、何言ってんだよ!? んなわけないだろーがっ! 俺は健全な教育を目指す、誠実な教師だ」


 その焦り様が、余計に怪しいんですけどね……。


 私は気になったが、それ以上は聞かないことにした。

 何か知らなくてもいいことを知ってしまいそうで怖かった。

 余計な事を知ったおかげで、何か問題に巻き込まれたりでもしたら敵わない。

 疑いの目を向けつつも、再び視線を窓へと移した。

 すると、すかさず須山が口を開いた。


「そういうお前は、何やってんだよ?」

「……へ」

 今度は私が焦る番だった。






 表向きは私立探偵なのだが、これもはっきり言って言い難い。

 推理小説ブームに浮かされた、酔狂な女だと思われるかもしれない。

 そもそも、この年で探偵事務所を開業しているというのも、どうも不審ではないだろうか?

 いやいや、これには深い事情があるのだ。

 でもその事情を話すことは出来ないし、どうすればいいものか……。






 渋い顔で黙ってしまった私を、須山は訝しげに見て言った。

「何だよ? ……人に言えないような事やってんのか? まさか! ソープ嬢とかAV女優とか――」




――バキッ!!



「んなわけないだろーが!!」



 思い切り肘鉄を喰らわせた後、仕方なく小声で呟いた。




「私立探偵よ……」







 ああ、須山の反応が怖い。

 大体この職業に就いているって知ってるの萌だけだったのに、何で須山なんかに喋っちゃったんだろう!?

 岡野 麻衣一生の不覚!! 

 ああ、これからの四日間ずっとコイツに嘲笑われながら過ごすんだーっ! 嫌ぁぁぁ〜υυ







 私が後悔の念に駆られて身悶えている横で、須山が発した言葉は意外なもので、思わず拍子抜けしてしまった。

「ふーん……別にいいんじゃん? だって、探偵になりたくてなったんだろ?」

「……う、うん」

「じゃあ全然いいじゃん。女探偵なんて、かっこいいじゃん」

「えっ……う、うん! そーだよね?!」

私は胸を撫で下ろした。 良かった……。

 そーいえば須山は昔からこんなカンジだった。

 イイ奴なんだけど……女癖悪いと言うか……とにかくエロ大魔王なのだ、奴は。







 しばらくの間があった後、須山がふと切り出した。

「なあ、なんでいきなり同窓会なんてやることになったんだ?」

「須山は嫌だったの?

 思わず聞き返してしまう。一人でもみんなに会うのが嫌な人がいるなんて悲しかった。


「別に嫌じゃないって。でも今まで一回もそんな話出なかったのに、急にどうしたんだろうなと思ってさ」

「同窓会なんて、誰かが急に言い出したからやるもんでしょ」

 
私は苦笑しながら答えた。その答えに、須山も苦笑した。

「まあな。でも来て良かったよ。お前みたいに面白い職に就いてる奴が他にもいるかもだしな♪」

 そう言って須山は笑い出す。

「ちょっと! どういう意味!?」

「さあね、どういう意味だろうな? ぷっ……ははは」

「うざい……」






 こんなたわいもない会話を交わしつつ、バスは進んでいく。

 もうすぐ桜山荘へ着きそうだ。さっき看板が見えた。

 しかし、バスは看板なんてまるで無いかのように無視し、そのままどんどん奥へと進んでいった。

萌たちはというと、すっかり盛り上がっていて、看板なんて気にしてもいないようだ。

 私と須山は顔を見合わせながら
、互いに首を傾げた。

 すると、運転手(さっきの好々爺)は私たちに気付いたのかにっこりと微笑みながら言った。

「ご心配なく。お嬢さん方がお泊りになるのは、桜山荘の別館にあたるところなんですわ。この先のつり橋を渡った所にありますから、もう少しお待ちください」

「別館……ですか?」

「そうでございます。何しろ、普段はお客様にはお貸ししないんですが、女将自らが許可なさったそうで……まあ、貸切といったところですな」

「えーっ! 貸切なんですか??!」

言ったのは須山だ。この大声に驚いたのか、話に夢中だった萌たちも私たちの会話に加わった。

 三人とも目が輝いてた……何か良からぬこと考えているんじゃ……と少し心配になる程だ。






 わいわい言いながら進んでくバスはやがて、古いつり橋に差し掛かった。

 この吊り橋がさっき運転手が言っていた物だろう。とても古いらしく、風が吹く度に「ギィーッ」という嫌な音が鳴った。今にも切れてしまうんじゃないかと思う。

 私が(多分皆)この橋を渡っている間、生きた心地がしなかったのは言うまでもない……。



――ドクンッ


 一瞬、胸騒ぎがした。それもすごく嫌なカンジだ。つり橋を渡ったから……?

 私は無理やり自分にそう言い聞かせた。これからの楽しい旅行を台無しにしたくなかったのだ。

 でも……




――キキーッ




「さあ、着きましたよ。ここが、桜山荘別館でございます」

「えっ……あ、はい……」

私はやっと我に帰った。

 額からは、冷や汗が滲んでいる。


 ……
もう考えるのはよそう

 
 そう強く自分に言い聞かせてバスから降りる。

「お疲れ様でございました。もうすぐ係りの者が参りますのでしばらくお待ちになってください。では……」

運転手は軽く会釈をし、すぐにバスに戻っていった。

「ありがとうございました!」

私たちはお礼を言うと、思わずため息をついた。








 辺りは一面桃色である。

 山の麓も既に幻想の域であったが、ここはそれをはるかに凌ふ、まさに「桃源郷」という名がふさわしい場所だった。

 しかし、五人が同時にため息をついている光景はある意味不気味である……。



 その時、私たちの後ろから、よく通る、懐かしい声が響いてきた。



「おーい!!」



 この声の持ち主は、今回の同窓会の主催者とも言える、秋山 華子である。

 よく見ると、その後から、岸谷 ユリエ、堀之内 千絵子が駆けてきていた。


「久しぶり〜!!」

 私と萌は三人に駆け寄った。

 須山たちはというと、照れくさいのか少し離れた所から「よう」とか何とか言っていた。

「ささ、取りあえずは中に入ってからね。部屋に案内するわ」

華子が言う。そうだ、ここの旅館、華子の叔母が経営してるんだっけ。

 私と萌は口を揃えて礼を言った。徒歩じゃなかったとはいえ、いろんな輩に会ったため、そうとう疲れているのが分かる。






 それに……






 多分一番の疲れの原因は、さっきから絶えることのない、この言いようのない「胸騒ぎ」だろう。

 「不安」とも言うのかもしれない。

それにこの胸騒ぎ、桜山荘に近づくにつれて段々酷くなっているみたいだ。

 これから楽しくなるはずなのに、何故……?







 こんな気持ちのままでみんなと語り合うなんてできない。

 場の雰囲気を壊し、折角の同窓会を台無しにしてしまうかもしれない。

 人一倍今回の同窓会を楽しみにしてきた私にとって、それはどうやっても避けたいことであった。


 とにかく今は落ち着かなければ。

 ここで取り乱してしまっては、探偵の名が廃る! 

 最近萌に振り回されっぱなしだったから、その辺の疲れが今祟ってるのかもしれない。休養が必要な時なのだろうか。


 前を歩く華子を呼び止める。

「ごめん。先行っててくれる? ちょっとここら辺見てから行くよ」

「ん? 分かったけど……なるべく早く来てね! あ、荷物持ってくよ」

 そう言って、華子は私から荷物を引っ手繰った。相変わらずの強引さだ。

「ありがと。じゃあまた後でね」

 そう告げた私は、そそくさと別館から逃げ出すように立ち去った。

 案の定こんな私の姿を不信に思ったのか、須山が声をかけてきた。


「どうしたんだ?」

「え、いや、別に……ちょっと、散歩してくるだけ、よ」



 納得がいかない顔を須山はしたが、私は気にすることなく(おいおい)走り去った。


































 どれくらい走ったんだろう。

無我夢中で走りつづけたせいで、どこか分からない所に来てしまった。でもその代わり、さっきまでの不安は幾分か無くなっている。

ふと時計を見ると、3時15分を指していた。

しかし、辺りは一面桃色に霞がかっていて時間間隔が掴めない感じである。これで時計が壊れてたら終わりだ。

「やばいな〜。道に迷ったっぽい……」

方向音痴って、致命傷だな。どうしよう遭難したら。

 一人で散歩なんて格好つけておいて、挙句の果てに遭難なんて、一生の恥じだよ〜!

ああ、誰かいないかな〜。せめて誰かに会えれば、別館までの道、教えてもらえるのに……

――そう思った矢先だった。




――ガサッ




目の前の茂みから、草を掻き分ける音がした。

まさか熊!!? それって、ものすごーくやばくね?! とにかく逃げなきゃ!!

そう思った瞬間、茂みから出てきた男にいきなり腕を掴まれた!

「キャーッ!!! 離してよ! 変態!!」



似合わない悲鳴なんぞ上げてしまった。

 日頃萌で慣れているとはいえ、不意打ちには対処できない。

 一体こんな山奥にどんな変質者がいるというのだ? いるとしたら人間ではなく、化け物の類じゃ!? 

 どうしよう、殺されるかも!!

「いや、君……ちょっ――」

男が何か言おうとする前に、既に我を忘れていた私は、日頃から嫌というほど萌に叩き込まれている「秘儀、かかと落とし」を喰らわせていた。

「グヘェッ!」

男は白目を向きながら、泡を吐いてその場に突っ伏した。

 私は正直つまらなかった(あり得ない)

 だって、あの程度でのされるなんて変態にしては弱すぎる。第一萌のを喰らったら、多分この人即死だ。遭遇したのが私で良かった。

「あれ? この人なんか持ってる――げ!?」






 そう。

この人は変態なんかじゃなく、ただ道を聞こうとしていただけだったのだ。

 手には地図が握り締められていた……。


「ヤバイ……」

私は罪の念にかられた。

とにかくこの人起こさなきゃ……。
































「あの……大丈夫ですか!?」

「う……あ――は、はい」

男が目を覚ましたのはあれから三十分後だった。

 私は本当に取り返しがつかなくなるんじゃないかとすごくすごく心配した。

 探偵が犯罪を犯すなんて笑えない事だし、ましてや、自分が殺人を犯してしまったなんてもう生きていけないとまで思った。

 だから目を覚ましてくれた時は、本当に安心した。

「あの、本当にごめんなさい! 私てっきり変質者かと……」

「いや、こちらこそすいません! いきなり腕なんか掴んだら勘違いされるに決まってますよね……ハハ」

そう言いながら笑っているこの人であるが、頭、とても痛そうだ。ああ、悪いことしちゃったな〜……。

 申し訳ない気持ちでいっぱいになりながら見つめていると、ふと目が合った。

「っ――!?」

 私は思わず息を呑んだ。

 まさか……そんな筈ない……。でも……

「あの……お名前伺ってもよろしいですか?」

いきなりだとは思ったが、聞いてみずにはいられなかった。だってこの人は……。

「あっ、僕は北林……北林 義高です」

「北林……義高さん……?」

 やっぱり他人の空似だった。でも……名前――似てる。顔とかも良く見ると似ている。

 彼――北林 義高は、私が昔好きだった人にそっくりなのだ。

「あの……君は?」

逆に聞かれて少し緊張してしまった。だって、声も似ているのだ。

「ああっ、すみません。自分から名乗るのが礼儀ですよねっ……私は岡野 麻衣と申します」

「岡野さんか。あの、聞きたい事あるんだけれど……この辺りに桜山荘っていう旅館あると思うんだけど……知らないかな?」

どうやら彼は、桜山荘への行き方を知りたかったようだ。

 ということは、もしかして地図見せてもらえば私も帰れるってこと!?

 私はすかさず言った。

「あの、実は私も道に迷っちゃって……それであの、地図見れば分かると思うんで見せてもらえます?」

そう言うと、北林さんは地図を差し出した。しかし、地図には何故か別館の方しか描かれていなかった。

 私は告げる。

「あの、この地図には本館の方、描いてないですけど……」

 すると、彼は「え?」っという顔を向けた。

「本館? 桜山荘って、一つじゃないのかい?」

「いえ、本館が通常なんですけど、別館という普段は使われない方があって。私はさっきここに友達と来たんですけど、あっ、別館の方に。友達の叔母がこの旅館経営なさってて、特別に貸して頂いたんです」

「へえ……でもじゃあ、この地図では別館の方にしか行けないんだよね?……困ったなぁ」

 そう言って北林さんは眉間に皺を寄せ、何やら考え込んでしまった。

 何度見ても、あの人にしか見えない……。

 口調、背丈、顔立ち……何もかもが似すぎていて、別人なのに本人と話している気になってしまう。

「私もここの事はよく分からないから……何とも……」

 ずっと見つめていることも出来ず、私は俯くしかなかった。


 北林さんは、あの人とは全くの別人だ。

 しかし、あの人に瓜二つなこの人をどうにか助けてあげたかった。

 自己満足でもいい。

 ただ、どうしてもこのまま別れてしまいたくないと強く思う自分がいた。


 そして、思い浮かんだ言葉はこれだった。

「あのっ……私の友達なら分かるかも知れません! さっきのお詫びもしたいですし……良かったら一緒に別館の方へいらしてもらえませんか?」

 私の懇願にも似た提案に、彼はびっくりしたような、でも嬉しそうな顔を浮かべた。

「お詫びだなんてとんでもない。でも道が分からないのは事実だし……お言葉に甘えさせてもらおうかな。いや、道聞いたらすぐに行くから安心して」

そう言うと彼は笑った。爽やかに。







 でも私は見てしまった。

 きらりと光って見えたその歯に、青海苔が付いていたのを……。





 こうして私の儚くも美しい期待と思い出は、泡沫となって消えていった。



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