「あれ、手紙が入ってる……」
 大学から帰宅した私は、ポストに入れられていた一通の封筒を見つめた。
 Eメールが発達した今、手紙が送られてくること自体が稀だ。

 部屋に入り、封を切る。
 中には、一枚のカード。

――――明日15時。時計塔下にて待つ。

 真っ白い封筒には、差出人は書かれていなかった。
 ただ、その封筒からは薄っすらと……ほんの香る程度の薔薇の香りがした。
 この香りは……『薔薇の雫<ローズドロップ>』……?

 何かが起こる……そう、直感した。





Chapter1: Being invited to the drop of the rose.





、久しぶりに一緒に帰らない?」

 14時30分。
 講義を終えた私のもとに、友人の有紀こと、小島有紀が駆け寄ってきた。
 彼女は美人で聡明で、学内のアイドルだ。もっとも、本人はあまり気に留めていないようだけど。
 折角の有紀の誘いだったが、私にはどうしても向かわなくてはいけない場所がある。
「……ごめん。ちょっと、用事があるの」
「そっか……」
「ごめんね、本当……」
「ううん。私は大丈夫よ。でも……最近顔色悪いわよ? ちゃんと寝てるの?」
「え、あ、うん……」
 有紀は私の顔を見ながら、複雑な表情を浮かべる。
「……、こんなこと言うのもあれだけど……翔さん捜すのは、警察とかに任せた方がいいわよ」
「……」
「辛いのは分かるけど……でも、このままじゃあ先に、アンタの方がおかしくなっちゃうような気がして……」
「有紀……」
 有紀の言葉に、私は何も言えなくなった。

 有紀が私を心配してくれているのはよく分かる。
 私だって、警察がもっと動いてくれれば……と何度も思った。
でも、警察は全然頼りにならないことを、身を持って知ったから……というか、自分以外誰も頼りになんてならない。

「その……ご両親は何て?」
「……連絡の一つもないよ。秘書っぽい人に事件を伝えたけど、音沙汰無し」
「そう……」
「心配かけてごめんね、有紀。でも私は大丈夫だから!」
――」
「ごめん、もう行くね」

 有紀を振り返らずに、そのまま教室を飛び出す。

 ごめんね……有紀。
 でも私は、お兄を捜すことをやめられないの。
 お兄を捜していないと、私は生きていられない。
 お兄が私の全て。
 お兄のいない世界で、私は生きていけないんだ……。






 時計塔……それは多分、校内の中心部に聳え立つ此処を指すのだと思う。ロンドンのビッグ・ベンを模倣した造りのソレは、生徒たちの待ち合わせ場所にもよく使われる。
 辺りを見回すが、手紙の差出人らしき人物は見当たらない。
 私は塔の壁に持たれかかりながら、薔薇の香りがする封筒を眺めた。

 何かが動いている。
 私の知らない場所で、誰かが何かを動かしているのを感じる。

 お兄……


「――――さん?」

 突然名前を呼ばれ、声のした方向に顔を向ける。
 
 そこには、パンツスーツに身を包んだ女性が立っていた。
 年は……20代半ばというところだろうか。サングラスを掛けている。ショートヘアが利発そうな印象を醸し出し、細身のスーツが美しいボディラインを際立たせている。

「……そう…ですが、貴女は……」
「招待状、読んでくれたみたいね」
「! 貴女がこの手紙の……」

 彼女はゆっくりとサングラスを外すと、にっこりと綺麗な微笑を浮かべた。
 瞬間、その微笑が誰かのソレと重なった気がした。

――――でも、誰と?

「……とりあえず、場所を移しましょうか。ちゃん」

 やっぱりこの笑み、誰かに似ている。
 でも……誰だが思い出せない……。

 軽く頷きを返すと、彼女はそのまま踵を返した。
 瞬間、ふわりと薔薇の香りが漂う。

 薔薇の雫……あの香り。






「ダージリンを一つ。彼女には……」
「私も同じ物を」
「かしこまりました」

 大学から少し離れたカフェに入った私たちは、しばらくの間無言だった。
 ウエイターが運んできた紅茶を一口啜る。
 そういえば、兄は紅茶が好きだったな……と考える。英国暮らしが長かったせいか、コーヒーよりも紅茶を好む嗜好が身に付いたのだった。
 もちろんそれは、私も同じ。
 紅茶は心を落ち着かせてくれる、私にとっては一種の精神安定剤のようなものだった。

「……ふふっ、翔君も紅茶が好きだったわ」
「!?」
 突然彼女の口から出た言葉に、私は思わずカップを落としそうになった。震えた指が滑り、カップがソーサーに当たり、不協和音を響かせる。私の瞳は、目の前の女性に釘付けになる。

「貴女は……お兄を知って……」
 震える声でそう呟いた私に、彼女はにっこりと微笑む。そして、ゆっくりと告げた。
「初めまして。私は西園寺玲。玲と呼んでちょうだい」
「玲さん……」
ちゃん。今日は貴女に、どうしても伝えたいこと、そして頼みがあって来たの」
 彼女は鞄の中から、身分証明書のようなものを取り出し、私に見せた。

 カードに記載されている名称を見て、私は眉根を寄せた。
 世界最大規模を誇る、製薬会社の名前。……両親が籍を置いている研究所だった。

「私は以前、この会社の研究員だったの。貴女のご両親とも懇意にさせていただいていたわ」
「……」
ちゃんが生まれたばかりの頃に、一度会ったこともあるのよ。覚えていないだろうけど……」
 玲さんは、私の両親と幼い頃の私を知っている。その事実が、何故だか妙な違和感を私に抱かせた。
「私に伝えたいことって……」
「ふふっ、ごめんなさいね。ちょっと昔を思い出したら懐かしくなっちゃって……」
 彼女は微笑を零すと、ワントーン声の調子を落として言った。
「一つ目は、ちゃんのお兄さん。翔君のことについて」
「!」
 玲さんは、お兄のことを知っている。
 私は心臓が早鐘を打つのを感じていた。
「お兄は……お兄は無事なんですか!?」
「落ち着いて……って言うのも無理な話よね。結論から言えば、彼は無事よ。もっとも、常に危険に晒されているけれど」
「……お兄は今、どこに!?」
 私の問いかけに、彼女は首を振る。
「……ごめんなさい。それは私の口からは告げることは出来ないの」
「ど、どうしてですか!?」
 思わず椅子から立ち上がる私に、彼女が静止の声を上げた。
ちゃん! 貴女の気持ちは分かるけど、今は黙って私の話を聞いてほしいの」
「でもっ……」
「お願いよ……! でないとちゃん、貴女まで危険に晒すことになるの!!」
「っ……」
 玲さんがあまりにも必死で、私は何も言えず黙って腰を下ろした。

 紅茶を飲み、心を落ち着かせる。
 静かになった私を見て、玲さんは苦笑した。あ……この微笑み、身近な誰かと同じもの……。

「くす……本当、翔君にそっくりね。彼も貴女のことになると、周りが見えなくなっていたわ」
「……すみません、取り乱して……」
「いいえ、いいのよ。でも、これは彼の意向でもあるの。貴女に会わないと決めたのは翔君自身なのよ」
「お兄が……?」
「……貴女を巻き込みたくないそうよ。彼から伝言。『心配するな』……ですって」
「……」

 お兄らしいなと思う。
 いつでも、どんな時だって、私を護ってくれたお兄ちゃん。
 私の安全を最優先して、自分の辛さは決して私に見せてくれない。

「まあでも……私が思うに、貴女に会ったら、貴女の傍から離れたくなくなってしまうからでしょうね」
「……ふふっ、そうかもしれません。お兄って、結構なシスコンでしたから」
 思わず笑みが零れたのは、玲さんの口調がとても穏やかだったから。
 玲さんはきっと、お兄の無事を確信している。それだけで幾分か心が楽になる。それは多分、この人のことを私が信用しているから。初めて会ったような気がしない、不思議な雰囲気を持つ玲さん。彼女は私の……私の大切な人に似ている。それが誰なのかは、やっぱり分からないけれど、安心感があるのだ。
「まあ、私も負けず劣らずのブラコンなんですけどね」
「あら……うふふっ、相思相愛なのね。羨ましいわ」
「あははっ、お兄ラブですからv」

 こんな風に笑ったのは、久しぶりな気がする。
 緊張が続いていた日々に、一瞬の休息が訪れたような穏やかな感覚。
 家族との会話……。何故かそんな風に感じた。

 しばらく笑い合った私たちは、二杯目の紅茶を手に取る。
 ……一瞬にして、空気が緊迫する。
 ああ……ついに本題に入るのだ、と漠然と感じ取る。
 玲さんは私に、真剣な表情を向けた。
「二つ目に伝えたいこと。それは……翔君の持つ秘密とご両親のことよ」
「お兄の秘密……?」
「ええ……。ちゃん、信じられない話かもしれないけれど……よく聞いて。彼はね……」



――――瞬間、時が止まったような気がした。

 色も音も何もかもが無くなった世界。
 その中心に、私は一人で立っている。







翔は、クローン人間なのよ」







「……じょ、冗談ですよ……ね」
 体が震える。
ちゃん……残念だけど、これは紛れも無い真実なのよ」 
 冷や汗が滝のように流れ落ちる。
「だって……そんなことって……」
 お兄がクローン?
「……正確に言うと、遺伝子操作を受けた人間ね。完全なクローン体ではないわ」
「……どうして、そんな……」
「……ちゃん、ご両親のお仕事ってご存知かしら?」
 玲さんの言葉に、私はどんな意味があるのか分からなかった。
 両親は研究者。製薬の研究開発をしている……はずだ。
「医療薬品の研究開発……ではないんですか?」
「半分正解で、半分間違いかしら」
「え……」
「本当はね……クローン研究をしていたのよ」
 玲さんは鋭い視線を私に向けると、強い口調で言い切った。

 私は言葉を失った。
 両親がクローンを研究していた……?!

「ご両親はね、クローン研究のエリートだった。クローン技術は、皆が考えているよりも遥かに進んでいるのよ。でも、倫理上の問題だとか色々な事情があって、世間的にはあまり公表されていないだけ。本当は……同じ人間を作り出すことなんて、容易な時代になっているの」
 玲さんが紅茶を口に運んでいる間、私はただ呆然と彼女を見つめる。
 クローン、同じ人間……この言葉が、頭の中を回っている。
「私はね……ご両親と同じ研究チームに所属していたことがあるの。今から25年くらい前かしら……その時はまだ、ちゃんは生まれていないわね」
「25年?! だって玲さんって、まだ……」
 私の言葉に、彼女は苦笑した。
「ふふっ……これはね…『若く見えるだけ』なのよ」
 何となく、彼女の言葉の裏に隠された真意に気付いた私は口を噤んだ。
 さっきの違和感と重なる。
 まさか……でも……それじゃあ……。
「くす……やっぱり夫妻のお嬢さんね。聡い子……。研究チームのリーダーは私。彼らは私の一番の部下だった」
 彼女は遠くを見つめるような仕草を見せた。
「……彼らは本当に優秀で、部下の鑑のような存在だったわ。私をよく慕ってくれて……。それが、あんなことになるなんて……」
「玲さん……?」
「人間って、本当に利己的だと思うわ。自分たちの研究成果を、どうしても試したくなる……他人を犠牲にしても」
「……玲さん」
「丁度その時だったわ……貴女の母親が、翔君を身篭ったことを知ったのは」
「ま、まさか……!?」

 最悪の想像をした私は、全身に走る悪寒に震えた。そしてそれが、玲さんの口から放たれないことを心底祈った。
 嫌だ……止めて。
 聞きたくない……そんなこと。

「玲さんっ、やめ――」
「研究員の一人が…胎内の翔君に」
「嫌ぁぁぁっ!! もう止めてーっ!!」



 私は……泣いていた。
 耳を両手で塞ぎ、震える体を必死に抑えながら。

 頭が痛い。
 眩暈もして、吐き気がする。
 目の前の視界が、ぐにゃりと歪む。
 玲さんの心配そうな顔も、涙で霞んできちんと見えない。
 

 お兄……ちゃん……っ、私は…………


 目の前が真っ暗になり、何も見えなくなった。
 音が聞こえなくなる瞬間、頭を過ったのは…………深紅の薔薇とあの微笑みだった。





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ついに……謎が解けました!?序章的な展開になりましたー!超急展開ですが(汗)そして案の定、ヒロインはぶっ倒れましたね☆(おい)
翔はクロー●だったのか?って感じですが、正確には「遺伝子操作」ですので、クローンでは無いのかも(曖昧)さてさて次回は、さんの夢の中での独白……かな?(未定)