8

 あの後は散々だった。
 泣きじゃくる二人を宥めながら、打ち上げに連れていってやれば、ありえないくらい飲み続ける二人の後輩。……コイツら、人の金だと思って。
 そのまま一海は酔い潰れ、たった今タクシーへ押し込んだところだ。
 渚はと言えば、いつの間にかウーロン茶を飲んでいたらしく、酔った様子はない。
「渚はどうする? タクるなら、送ってってやるけど」
 すると、ふるふると首を振って、ボクの服の袖を掴む。
「先輩……最後にお願いがあるんです」
「何?」
「一緒に、大学まで行ってもらえませんか?」
「え?」
「お願いします!」
 そう必死に懇願されては断れない。ボクはタクシーを捕まえて、「外大まで」と言った。渚は何をする気なんだ?



 大学は、夜中ということもあり、静まり返っている。ただ、ところどころに灯りが点いているのは、夜間生がまだ残っているからだろう。
 渚が向かったのは、見慣れた練習室だった。言うまでも無く誰もいない。
「渚、一体……」
「先輩、私、来週……日本を発ちます」
 目を見開いたボクに、渚は続ける。
「……なるべく早い方がいいからって。だから、もう、先輩とも……」
 渚は、そのままヴァイオリンをケースから取り出す。
 灯りの無い練習室には、月の光が差し込み、渚を青白く照らしている。
「最後に一曲。先輩のためだけに弾きます。聞いて、もらえますか……?」
 そんな瞳で見つめられて、断れる男はいないだろう。まして、そんな泣きそうな顔されたら……いくらボクでも、軽口も叩けない。
「……ああ」
 そう言うのが精一杯だった。
 小さく微笑んだ渚は、そのまま静かに目を閉じた。
 聞こえてきたのは――――……



「3つのロマンス……?」

 渚は薄っすら目を開けて、再び目を閉じる。
 
 シューマン作曲「3つのロマンス」。
 渚が弾いているのは、その中の第2曲。美しく軽やかな旋律は、奏者も聴衆も穏やかな気分にさせる。昔少しだけ、かじったことのある曲だったが、その時はこんなに美しい旋律だとは思わなかった。

 ……綺麗な音だ、と心から思う。
 同時に、この音は、ボクだけに向かって響いてくるからこそ、美しいと感じられるのだと気付く。
 大勢の観客ではなく、ボクのためにだけ……渚の気持ちが、直接心に語りかけてくるようで。ボクは、ただただ、その音に聞き惚れた。

――――――
――――
―――
――




 音が止み、渚が静かに息をつく。
 ボクは、心からの拍手を送る。人にここまでの拍手を送るなんて、滅多にない。それくらいに渚の音はボクの心を揺さぶった。
「えへへ、どうでしたか?」
「……すごい良かった。渚、お前はやっぱりすごいよ」
「良かった。この曲、私のお気に入りなんです。先輩に聞いてもらえて……良かった」
 そう言って笑った渚は、涙ぐんでいる。
 ボクはそのまま、渚の頭を軽く撫でた。
「っ……先輩……」
「サンキュー……思わず聞き惚れた」
「私……私はっ……」
「だから……これはお礼。そして、ボクからお前に餞別」
「?」
 ボクはそのままピアノへ向かう。渚が後ろでおろおろしているのを感じる。
「せ、先輩、もしかして……」
「何でもリクエスト受け付けるよ。お前のために、お前の好きな曲を弾く」
「ほ、本当に!?」
「ああ。ほら、何がいい?」
 ポロンポロンと、指を鍵盤に馴染ませる。
 まるでピアノが、早く唄わせてくれと言っているかのように、綺麗な音が鳴る。
 しばらく悩んだ渚は、やがて何かを思い出すかのように、静かに言った。
「じゃあ、あの曲を。先輩がコンクールで弾いた、あの曲を弾いてもらえますか……?」
「……幻想即興曲と、革命のエチュード……悲愴ソナタ……だっけ」
 まさか、あの3曲をリクエストされるとは思っていなかった。
「はい……ダメですか?」
「……いや、いいよ。でも、あんな悲愴感漂ってる曲でいいわけ?」
 幻想即興曲は別としても、革命のエチュードと悲愴ソナタは、どう聴いても哀しい曲だ。渚の餞別には、あまり相応しくない。
「いいんです。お願いします」
「渚がそう言うなら……」

 渚が椅子に腰掛けたと同時に、ボクはピアノを唄わせる。
 渚の真意は分からないが、この曲を望むならそれに応えるまで。
 ボクは、渚たちと過ごしてきた日々を、曲に乗せて弾き続けた。

 あの時のコンクールが蘇る。
 あの時は何も考えることが出来なかった。
 ただ、悲しくて辛くて、まるでピアノに当り散らすかのような乱暴な演奏をしてしまった。
 今は、そんな昔を懐かしみ、冷静に見られるほどになっている。
 小学生の手では小さくて、演奏に苦労した部分も、今では楽に弾けるようになった。
 成長したんだな……と、何となく思う。それと同時に、ボクはやっとまた、誰かのためにピアノが弾けるように、弾きたいと思うようになれたのだと感じる。

 祖父母が喜んでくれるなら、いくらでもピアノを弾こうと思った。
 自分の音で喜んでくれる誰かのためになら、ピアノはこんなにも楽しい。
 競い合いもなく、順位もない。
 ただ、ボクの演奏を聴いて、喜んでくれる。ただそれだけのことが、こんなにも嬉しくて、楽しい。そんなこと、もうずっと昔から知っていたはずなのに、今の今まで忘れていた。

 コンクールに出る理由。
 それはただ、ボクは自分の音で誰かを喜ばせたかった。祖父母がそうだったように、ボクに向けられるあの笑顔が見たかったんだ。
 でも、何のためにコンクールに出るのかが分からなくて、何のために音を奏でるのかも分からなかったボクは、結局この笑顔を見ることは出来なかった。だから、気付かなかった。

 拍手が響き、渚が駆け寄ってくる。ブランクがあるにも関わらず、意外にもすんなり弾けたことに自分でも驚いた。しかも、悲愴を唄った曲であるのに、こんな穏やかな気持ちで弾いてしまった。
 でも、渚は満足してくれたらしい。
「っ……先輩っ……本当に、ありがとうっ……」
「渚……やっぱり、これじゃボクが満足出来ない」
「え……?」

 そう。やっぱり渚のために弾くなら……この曲じゃない。
 例えばそう。今宵にこそ相応しい曲を――――



「これは……」
 ボクは少しだけ微笑むと、そのままゆっくりと音を紡ぐ。
 渚に……少しでも、ボクの気持ちが伝わるように。
 
 渚は目を閉じて、ピアノにもたれ掛かる。
 深夜の練習室には、穏やかな音色が響いている。






「私……先輩の……先輩のピアノが、大好きです……!! 絶対に、今日のこの演奏、忘れませんっ!」
 演奏が終わりを告げて。
 ぽろぽろと涙を零しながら、微笑む渚。

 ああ……ボクは、この笑顔が見たかった。
 じいちゃんとばあちゃんが見せてくれた笑顔が、今ボクの目の前にある。
 そうか。ボクが今日までピアノを辞めなかったのはきっと、この笑顔をもう一度見るためだった。
 そんなファンタジーな考えが過ぎるほど、渚の笑顔はボクの心の蟠りを溶かしてく……

「バカ……何泣いてんだよ」
「ふぇ……だって、だって……先輩の音が、直接私に響くから……っ……うぅっ……」
「はいはい……ったく、ホントに手のかかる後輩だよ…………」
 そっとその身体を抱き寄せて、背中を擦ってやる。
「わわっ!? せ、先輩!!」
「そのままじゃ、帰るに帰れないだろ? 気の済むまで泣けば?」
「うぅ……私、私っ、やっぱり留学なんてしたくないよ……! 先輩と一緒に、ずっと一緒にいたいっ……」
 蚊の泣くような声で、そんなことを言う渚。
 ボクはわざと、耳元で囁く。
「……じゃあ、ボクが行くなって言ったら……渚、留学しないでくれる?」
「……え!?」
「ボクが、お前とずっと一緒にいたい。お前と音楽やりたいって言ったら、お前はそれを受け入れてくれる?」
「そ、それはっ……それはっ……」
 月灯りでも分かるほど、渚は真っ赤になっている。……うん、やっぱり癖になるな。
 しばらく言葉を詰まらせていた渚。控えめにボクの胸元を掴み、やがて……小さく笑った。
「ふふっ……私、大人だって言ったでしょ……? 先輩の、冗談になんて……騙されないもん……」

 ……冗談、ね。
 口にしたら、冗談とも本気ともつかなくなってしまった……なんて、言えるわけもない。

「フフッ……そうだったね」
「そうです……それに……せっかく、先輩のおかげで留学のチャンス掴めたのを……無駄にしたくない……」
「……それでいい。お前は留学して、広い世界を見てきなよ。そうしたらきっと、今以上に良い音が出せるようになるから」
「……はい」
 渚はここで、ボクから少し離れてボクを見上げた。

 涙に濡れた瞳が、きらきらと輝いている。
 渚の心音の速さが、ボクにまで伝わる。
 ……こんなに心が揺れたのなんて本当に久々で……すごい焦る。

「ねえ先輩」
「何?」
「またいつか……いつかきっと、私と一海と三人でトリオ組んでくださいね? 私、きっと、先輩を唸らせるヴァイオリニストになって帰ってきますから!」
「……もちろん。楽しみにしてるよ」
「先輩もしっかり練習しておいてくださいよ? 先輩が一番ヘタになってたら、許さないですからね!?」
「……お前、誰に向かって言ってるわけ? ホント、生意気」
「あはははっ、先輩の後輩ですもん! 生意気にもなりますよー」
「ボクもピアノ、辞めないから」
「え……」
「辛くなったら、いつでも泣きついてきなよ。その時は特別に、甘やかしてやるから」
 丸く見開かれた瞳から、またも大粒の雫が零れ始める。渚がこんなにもよく泣く奴だったとは知らなかった。
「……うぅっ……先輩って、どうしてこういう時だけ優しいんですかぁ……! そんなこと言われたら…………やっぱり遊び相手でも――――いやいや、やっぱり遊び相手は嫌ですけどっ……とかって思っちゃうじゃないですかっ!!」
「フフッ、だからお前がその気なら、いつでも相手してやるって」
「ほ、他の女の人たちはどうすんですか!?」
「うーん……いらないから、切る?」
「なっ……ひ、酷いですってそれ! 鬼です!! 悪魔です!! 女の敵です!!!」
「でもお前だって、その悪魔と遊んでみたいんだろ?」
「うぅっ……うわーーーんっ!! もう嫌だぁ……!! 佐伯先輩のバカバカっ!!」
「お前ね……泣くか怒るかどっちかにしろよ」
「悪魔!! 鬼ぃっ!!」
「はいはい、悪かったって。でもボクは、少なくともお前の前では“優しい先輩”だろ?」
 そう言って、泣いて怒る渚を再び抱き締める。さっきよりも、少しだけ強く。
 渚は大人しく腕の中におさまって、しゃくり上げながら言う。
「ひっく、先輩なんてっ、大っ嫌い!」
「そう言うなよ。ボクはお前のこと好きなのに」
「っ……そういうこと、簡単に言わないでっ……くださいぃっ」
「……簡単じゃないよ。少なくとも、名前も覚えてない奴らなんかとは、比べようもないくらいには好きだって」
「…………なんかっ…素直に喜べないんですけどっ……」
「そりゃ残念だね」
「うぅ……先輩って、本当に意地悪過ぎ……」

 渚の未来を、ボクが奪う権利なんてどこにも無い。……コイツは、ボクの可愛い後輩なんだから。
 だからボクは、これ以上渚に近付かない。
 これ以上近付いたら、きっとボクは渚を…………。

「……そろそろ帰るか」
「…………はい」

 渚のヴァイオリンを片手に、構内を出る。
 月が照らす渚の横顔は、やっぱり綺麗だった。

「ねえ渚」
「はい?」
「……綺麗だね」
「え……」

 白い月を見上げて、「うわぁ……本当に綺麗……」と感嘆の声を上げる渚。そんな渚に苦笑しながら、ボクも月を見上げるのだった。



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BGM:
三つのロマンス第2曲/シューマン by tokupiの部屋
月の光/ドビュッシー by Yuki/Little Home on the Web 様