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 そして今日――――渚が日本を発つ日。
 ボクと一海は、渚を見送りに空港に来ていた。
「見送りなんて、いらないって言ったのに」
 そう言った渚の顔は、いつぞやのトマト状態になっている。……ホント、このトマトが見られなくなるのが悔やまれる。
「渚、元気でな!」
「一海もね。アンタ、トロイんだから……しっかり練習して、音楽部で頑張るんだよ?」
「……俺、渚と一緒に演奏できて、楽しかった。お前いい奴だし、面倒見いいし、姉貴いたら、こんな感じかなって――――いてっ!」
「私はアンタのお姉さんじゃない!!」
「じょ、冗談だろ!? 本気で殴るなよ!!」
「最後まで人を怒らせるようなこと言うからでしょ!?」
「何だよ! 俺はお前を元気付けようとだなぁ」
「余計なお世話よ!」
「むっかーー! 大体お前は――――」
「ストップ! お前ら、いい加減にしろ……ここ、空港だってこと分かってる?」
 途端に、二人の顔が青くなる。
「「す、すみません……」」
「ったく……最後までホントガキだな」

 でも、それでこそコイツらだ、とも思う。
 手の掛かる、可愛い後輩たち。
 いつまでも、それは変わらない。

「――――……そろそろ、行かないと」
 渚が、荷物を手に取る。
 そして、ボクを見つめた。心なしか、熱っぽいような気がする。
「……先輩、私…………やっぱり先輩が大好きです」
「っ……」
 思わず息を呑むボクに、渚はにっこりと微笑む。
「先輩のことも、先輩の弾くピアノも、全部全部大好き! 先輩がどんなに意地悪で女たらしで鬼で悪魔でもねっ!!」
「な、何の話してんだよ渚!? しかもおまっ、先輩に告っ――――ふがっ!?」

 気付いた時、ボクは渚を引き寄せていて。
 渚の顔がトマトになったのを見た瞬間に、自分がキスをしたのだと分かった。

「ささささえきっ……せせせせせ先輩ぃっ!?」
 裏返った声で、口をパクパクさせる可愛い後輩。
「ププッ……お前、ホントトマトみたいだね。ククッ……かっわいいー」
 いつぞやの台詞を、そっくりそのまま返してやれば、渚の顔に怒りが見える。
「〜〜〜〜〜っもう!! そうやってからかうのヤメてくださいって言ってるじゃないですか!!」
「ああ、額じゃ物足りなかった? 唇の方がイイ?」
「きゃっ!? も、もう充分!! 物足りてますっ……!!//////////」
「そう? そりゃ残念」
「もーーーーーーーーーっ!! 先輩のバカ!!」
「アハハハハハッ」
「も〜嫌ぁっ……!!」
 肩を落として涙目になる渚は、やっぱりどうしようもなく可愛い。なんて思っていたら、何やら片手の先に、もぞもぞと動くものに気付く。
「あのぉ……佐伯先輩……ふがっ……く、苦しいんですけど……」
「え? あ、悪い悪い。お前の顔に、ハエが止まってたからつい」
 鞄に顔を押し潰された一海が、鼻を擦りながら呻いた。
「うぅ……しかも、何か物凄いシーンを見逃した気がするのは気のせいっすか?!」
「き、気のせいよ!! 絶対気のせい!!」
「クククッ……渚がそう言うなら、そうかもね」
 やっぱり、この二人の後輩を、ボクは心から気に入ってる。
「わっ、もうホント行かないと間に合わない!!」
 一人腑に落ちない顔の一海を他所に、渚が慌てる。
「渚……元気でね」
 渚は、少しだけ淋しそうに微笑む。
「……先輩も、元気で。あとついでに、一海も元気でね!」
「ひでえ! 俺はついでかよ!?」
「あはははっ、メールも電話もするし! ちょくちょく日本に戻ってくるつもりだしね。その時は、二人とも召集ですからね! OK?」
「はいはい」
「へいへい」
「ふふふっ、じゃあ、行ってきます!!」

 そう言って早足で去っていく渚は、こっちを一度も振り返らなかった。ただ、時折小さく震えるのが見えて……追い掛けたい衝動に駆られた。

 でもダメだ。
 後輩の背中を、押してやらないといけない。
 もう一度、あの時の気持ちを思い出させてくれた彼女の旅立ちを、ボクは見守ってやらなきゃいけない。

 随分と長い間立ち尽くしていたボクに、一海は珍しく何かを考え込むように言った。
「……アイツって、多分ずっと、佐伯先輩のこと…………」
「――――さて、もう行くよ。音楽部の奴らに、お前をオケに入れてもらえるように話してやる」
「ま、マジっすか!? 先輩が直々に!?」
「ああ。だから、ボクの顔を潰すような真似はすんなよ?」
「も、もちろんです!! よっしゃ!」
「フフフ……」


 ガラス越しに、飛び立つ飛行機を眺める。
 青空に向かうその白い機体は、ただ一直線に進んで、ボクの前から消えていった。




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