6

 それから毎日、ボクたちは精力的に練習に励んだ。
 ボクも、柄にもなく本気で練習した。こんなに本気で練習したのは、何年ぶりだろう。ピアノの弾き過ぎで、手首が痺れる感覚なんて、もう何年も感じていなかった。
 
 そして、コンクール前日。
 最後のリハーサルとして、通しで弾くことになる。
 後輩二人の真剣な面持ちと、張り詰めた空気。自然と、鍵盤に触れる指先が熱を持つ。
 三人の呼吸に合わせて、静かに音が響き始めた。

 明日で終わる。
 コンクールも、こいつらとのトリオも。
 そう思ったら、少しだけ寂しいような気持ちになる。裏表の無い二人に、ボクは少なからず安らぎを覚えていた。それが無くなるのだと思うと、やっぱり少し気分が沈む。
 明るい曲を弾いているのに、響く音はどことなく哀しかった。

「……よし、終わり。あとは明日、本番だね」
 ボクの声に、二人は息を吐いた。
 ピアノに寄りかかりながら、ボクは言った。
「……なあ、多分知ってると思うけど、ボク、このコンクールが終わったら……」
「引退……ですよね」
「知ってます」
 二人の後輩は、淋しそうに笑った。
「……うん。悪いね。ホントはさ、もうちょいお前らと一緒にいてやってもいいかなって思うんだけど……」
「……その気持ちだけで、充分です。ね、一海」
「ああ。俺ら、今まで先輩とトリオ組めただけでも、すっげー幸せだったって思ってますから」
 そう言って、一海はいそいそと帰り支度を始める。何事かと思うほど、その動きは素早い。
「じゃあ、俺、ちょっと寄るところあるんで、お先に失礼します! 明日、頑張りましょうね!!」
「あ、ああ……また明日な」
「渚、頑張れよ!」
「え!? あ、ちょっと一海……!?」
 ガコンッと扉に足をぶつけながら、不自然なほど慌てて部屋を出て行く一海。
 渚はと言うと、扉を睨みつけながら「一海、覚えてなさいよ」と、いつかのどこかのベタ台詞を吐きながら、帰り支度をし始める。……何なんだ、一体。



 すっかり暗くなった夜道。渚と並んで駅までの道のりを歩く。
 少しだけ欠けた月が、白く輝いている。この分だと、明日は満月だろう…などと、詩的なことを考える自分がおかしかった。
 途中、小さな公園前に差し掛かった時、渚が言った。
「先輩、喉渇きません?」
 公園内にある自動販売機を指差している。
「……いいよ、奢ってやるよ」
「え!? せ、先輩……私が」
「いいから。ほら、行くよ」
「え、あ、ちょっと……」
 戸惑う渚を連れて、自動販売機の前に立つ。何の変哲も無い、ただの自販機。ボクは硬貨を数枚入れると、ミルクティーのボタンを押した。ガコンッという音と共に、缶が転がり出てくる。
「ほら、好きなの押しなよ」
「え……あ、じゃあ……」
 少し戸惑いながらも、レモンの炭酸飲料を選んだ渚。しかし、中々自販機から取り出すことが出来ない。
「と、取れないっ」
「……どいて。ったく、ホントに手の掛かる後輩だよ」
「す、すみません……」

 缶を取り出して、何となく向かった先はベンチだった。
 ベンチに座るなり、渚が言った。
「……私、留学しようと思うんです。ヴァイオリンの勉強、本格的にしたいなって」
「……そっか」
「小さい頃からヴァイオリンを教えてくれていた先生の知り合いが、私のヴァイオリンの腕を見込んでくれたらしくて……すごい有名な方らしくて、こんなチャンス無いからって」
「ふーん……良かったじゃん」
「……はいっ」
 そう言って笑った渚の顔は、とても淋しそうだった。
 何となく、何も言えなくて黙っていると、渚が口を開いた。
「私……先輩と一海と、トリオ組めたこと、本当に嬉しくて……この一年半、毎日が楽しくて……ずっとこうしていられたらなって思って……」
「……」
「……私、本当はずっと昔から……先輩のこと、知ってたんです」
「え……」
「先輩、昔……ピアノコンクールによく出場されてましたよね?」
「お前……何でそれを……」
「……私もよく、そのコンクールに行ってたから…………」
 手に持った缶が、段々温くなっていく。
 しかし、渚の言葉に動けない。
「姉が、ピアノをやってるんです。それで、よくコンクールにも出場していて……そこで、佐伯先輩のことを知りました」
「そう…………」
「……子供ながらに、何て上手いんだろうって感動して……あははっ、実は私、ずっと先輩のファンだったんですよ?」
 おどけたように笑う渚。その笑顔に、思わず毒気を抜かれる。
「もっと早く言えって……」
「あはは……だって、何か言う機会無かったんですもん。先輩、途中からコンクール出なくなっちゃったし、何かあったのかと思って……」
 言いずらそうに小声で呟かれ、複雑な気持ちになった。しかし、今はもうあの頃の自分を落ち着いて見ることが出来る。渚になら、少しだけ話してもいいかという気分になる。
「……ピアノは、あのコンクールで辞めるつもりだったんだ」
「どうして……ピアノを辞めようなんて……」
「フッ……色々あったんだよ。最後のコンクールなんて、自棄になって選曲勝手に変えて、時間も無視して……ホント、ガキだった」
「……そのコンクール、私も覚えてます。お姉ちゃんが、佐伯先輩のこと気にしてたから」
「お前の姉貴が?」
「お姉ちゃん……そのコンクールで優勝したけど……あんまり嬉しくなかったって」

 瀬川 美波。
 確か、優勝したのはこんな名前の女の子。
 まさか、渚の姉だったとは。世間は狭い。

「嬉しくない? 何で?」
「……先輩に、勝った気がしないって言ってました。私より、彼の方が全然上手かった。だから悔しいって」
「…………」
「お姉ちゃん……あの後、審査員に抗議しに行ったんですよ。私の優勝を取り消してくれって。佐伯君の方が優勝に相応しいって」
「何をバカな……」
「でも私も……先輩の方が上手いと思いました」
「……あんなの、ただ感情に任せて弾き殴っただけ。上手いとか、そういうレベルじゃないよ」
「でも、今までの中で、一番引き込まれました。先輩の音は、心に直接響いてくる感じがして……スタンディングオベーションだったんですよ? 覚えてます?」
 観客総立ち? ……残念ながら、全く記憶に無い。
「……いや、全然」
「ふふっ、先輩らしいです。でも……大学で、先輩を見かけた時、私、本当に驚いて……でも、同時に嬉しかった。ピアノ、まだ続けてたんだって」
「それで……トリオを?」
 渚は黙って頷く。
「一海が、たまたまトリオに興味があるっていうのを聞いて、それで……先輩に声掛けたんです。あの、素敵な音色を、間近で聞けたらいいなって」
「買い被り過ぎだよ」
「そんなこと無かったです。やっぱり、先輩の音は綺麗で……だから私、先輩に負けないように沢山練習して……結果的に、留学のチャンスを勝ち取れたんですよ。先輩のおかげです!」
 真っ直ぐにボクを見つめる瞳がこそばゆくて、俯き加減になる。
 ボクらしくない。後輩に振り回されるなんて。
「……ま、役に立ったんならいいけど」
「先輩、もしかして照れてます?」
「なっ……バカじゃないの?! 何でそうなるわけ?」
「あはははっ、先輩が照れてる顔なんて、初めて見ましたっ。かっわいいーv」
「渚……お前、それ以上言ったらどうなるか分かってるよね……?」
「ひっ……」
 青くなった渚に、ボクは温くなった缶ジュースを手渡す。
「ほら、さっさと飲んで、帰るよ」
「はぁーい……っうきゃぁぁぁぁっ!!?」
 プシューッと勢いよく噴き上がったジュースが、渚を直撃する。
「プッ……アハハハハハハッ」
「せーんーぱーいーーー……!! ジュース、振りましたね!」
「生意気な後輩には、ソレ相応のお仕置きしないとね」
「もーっ!! うわぁ、ベタベタする……」
 そう言って顔を振る渚の前髪は滴っている。まさか、こんなにも勢いよく出るとは正直思わなかった。ちょっと、可哀相なことをしたかもしれない。
「クククッ……ほら、こっち来いよ」
「へっ」
 ハンカチで顔を拭ってやれば、渚の顔は驚く程に赤くなっていく。……ヤバイ、面白いかも。
「じ、自分で出来ますって!! もういいですからっ」
「ほら、逃げるなって……フフッ、渚、お前顔真っ赤」
「っ〜〜〜〜〜!! 先輩こそっ、こんなことして、彼女さんに怒られますよ!?」
 渚の言葉は、ボクにとっては意外だった。こんなことを渚に言われたのは、初めてだ。
「彼女? 彼女なんていないけど?」
「えぇっ!? 先輩に!? 嘘吐かないでください!! あんなにモテて、いっつも綺麗な人に囲まれてる先輩に彼女がいないなんて!!」
 あまりにも大声で捲くし立てる渚の額を軽く小突く。
「静かにしろって。……ったく、ガキだな渚は」
「むっ! そんなことないです!! きっと私は、先輩が思ってるよりも、ず〜〜〜っと大人です!!」
 そうやって、ムキになるところがガキだってのに。
「はいはい、まあ、とにかくボクに彼女はいないよ」
「う……そ……みたい……」
「ホント。あ、遊び相手なら沢山いるっぽいけど」
「……え“」
「遊び相手なら、数え切れないくらいいるけどね。名前は……あれ、誰も思い出せないや」
「……先輩、それ酷いです」
「クスクス…そう? ま、そんな酷い奴とトリオ組んでたわけだよ、お前は」
 そう言ってやると、渚は少し涙目になって唸った。
「っ〜〜〜〜〜うぅ……いいんです! それはそれ! 先輩の女性関係は関係ないです!!」
「そ? ならいいけど。……何なら、渚。ボクと遊んでみる……?」
「うぇぇ!? な、な、何言ってんですか!?」
 熟れたトマトのような顔をしながら、渚がベンチからずり落ちる。……ホント、癖になりそう。
「だって大人なんだろ? それじゃあ、色々教えてもらいたいねぇ……なあ、渚?」
「む、無理です無理ですっ!! ていうか、そんなのダメ!!」
「それは残念。渚だったら、毎日でも相手してやるよ」
 今の言葉は、結構本心だった。相手をしてやるやらないは別として、渚とだったら、こうやって毎日一緒にいるのも悪くない。一海と三人で、騒ぐのも悪くない。そんな本心が、ついつい軽口として出た。
 しかし、渚には刺激が強すぎた模様。ぼんっと音を立てて、渚の頭から煙がもくもくと……出ているような気がする。……幻覚見えるくらい、楽しいんだけど。
「……っ……佐伯先輩って、ホントに酷いです!!」
「アハハハッ、まあそう言うなよ。明日で最後なんだし」
「最後なのに、酷いって言ってるんですよー!!」
 真っ赤な顔の渚にぽかぽか叩かれながら、コンクール前夜は更けていった。




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