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それでも、月日は人の心を癒すのか。
高校時代には、あの時感じていた悲愴感はほとんど無くなっていた。兄貴に対する劣等感は相変わらずあったけれど、ピアノに対する嫌悪感は大分薄れてきた。いや……悲愴感が無くなったというよりは、むしろそれを感じなくなっただけかもしれない。慣れすぎて、特別に感じなくなったのだ。
だから、たまたまピアノを弾いていたところをクラスメイトに見つかって、そのまま音楽部に勧誘され、何となく入部して、結果ピアノ奏者になっても、大して抵抗は無かった。
コンクールに出場して、いくつかの賞ももらった。
自分一人じゃないから、気楽なものだった。特に入賞したいという気持ちもなかったから、気負うこともない。ただ、行事の一環としてコンクールに出る。それはとても楽で……つまらなかった。
でも、この頃改めて自覚したことがある。
それはピアノが好きだということ。
あんなに疎ましく思っていた存在が、いざ弾き出すとやっぱり離れられなくなる。好きなのだ、ピアノが。
たとえボクを裏切ったものだったとしても。
……ボクはピアノに囚われている。
大学に入って、ピアノトリオを組んで、ボクは未だに自分に問いかけている。
ピアノが好きなことを自覚して、コンクールに出たいと思っていることも認めて。
でも、理由だけが見つからない。
自分の思いを伝えたいなんて、綺麗な理由なんか無い。思いなら、あの時のコンクールでぶつけたっきり。それ以来、感情を伝える演奏は出来ていない。
兄貴はすっかりピアノから離れて、今はもう弾いていないだろう。
ボクは兄貴に勝ったのだ、初めて。
でも……嬉しくない。
何も満たされない。気持ちが満たされない。
次の日、ボクは約束の時間より早く、練習室へと向かった。
誰もいない放課後。ピアノだけが、夕日を浴びて黒く輝いている。
「……お前がボクを解放してくれたら、ボクはこんなに苦しまないのにね…………」
ポロンと、軽やかな音が響く。
馬鹿げたやり取りに苦笑しながら、椅子を引く。
「フフッ……さて、久々に本気で弾くかな」
そう呟いて、ボクは指を滑らせた――――……
あの時の、コンクールが頭を過ぎる。
……正直、無謀な挑戦とも言える曲ばかりを弾いた。
手も小さく、力も無い小学生が、あんな難曲を弾きこなせるはずもない。いや、弾くことは出来ても、完成度が足りていなかった。
それでもあの時、ボクは特別賞を受賞した。
今なら分かる。あれは、技術力ではなく、ボクの感情が審査員に響いたからなのだと。
でも今のボクには、あんなに強い思い、もう込められない――――……
BGM:黒鍵のエチュード/ショパン
by Yuki/Little Home on the Web 様