5

 それでも、月日は人の心を癒すのか。
 高校時代には、あの時感じていた悲愴感はほとんど無くなっていた。兄貴に対する劣等感は相変わらずあったけれど、ピアノに対する嫌悪感は大分薄れてきた。いや……悲愴感が無くなったというよりは、むしろそれを感じなくなっただけかもしれない。慣れすぎて、特別に感じなくなったのだ。
 だから、たまたまピアノを弾いていたところをクラスメイトに見つかって、そのまま音楽部に勧誘され、何となく入部して、結果ピアノ奏者になっても、大して抵抗は無かった。
 コンクールに出場して、いくつかの賞ももらった。
 自分一人じゃないから、気楽なものだった。特に入賞したいという気持ちもなかったから、気負うこともない。ただ、行事の一環としてコンクールに出る。それはとても楽で……つまらなかった。

 でも、この頃改めて自覚したことがある。
 それはピアノが好きだということ。
 あんなに疎ましく思っていた存在が、いざ弾き出すとやっぱり離れられなくなる。好きなのだ、ピアノが。
 たとえボクを裏切ったものだったとしても。

 ……ボクはピアノに囚われている。



 大学に入って、ピアノトリオを組んで、ボクは未だに自分に問いかけている。
 ピアノが好きなことを自覚して、コンクールに出たいと思っていることも認めて。
 でも、理由だけが見つからない。
 自分の思いを伝えたいなんて、綺麗な理由なんか無い。思いなら、あの時のコンクールでぶつけたっきり。それ以来、感情を伝える演奏は出来ていない。
 兄貴はすっかりピアノから離れて、今はもう弾いていないだろう。

 ボクは兄貴に勝ったのだ、初めて。
 でも……嬉しくない。
 何も満たされない。気持ちが満たされない。






 次の日、ボクは約束の時間より早く、練習室へと向かった。
 誰もいない放課後。ピアノだけが、夕日を浴びて黒く輝いている。
「……お前がボクを解放してくれたら、ボクはこんなに苦しまないのにね…………」
 ポロンと、軽やかな音が響く。
 馬鹿げたやり取りに苦笑しながら、椅子を引く。
「フフッ……さて、久々に本気で弾くかな」
 そう呟いて、ボクは指を滑らせた――――……

 あの時の、コンクールが頭を過ぎる。
 ……正直、無謀な挑戦とも言える曲ばかりを弾いた。
 手も小さく、力も無い小学生が、あんな難曲を弾きこなせるはずもない。いや、弾くことは出来ても、完成度が足りていなかった。
 それでもあの時、ボクは特別賞を受賞した。
 今なら分かる。あれは、技術力ではなく、ボクの感情が審査員に響いたからなのだと。
 でも今のボクには、あんなに強い思い、もう込められない――――……



「ふう……」
 溜め息と共に聞こえたのは、拍手。
 振り向けば、渚と一海がいる。
「すっごい!! すごいです!! ショパンの超絶技巧曲を弾きこなすなんて……!!」
「先輩、プロになった方がいいんじゃないっすか!?」
「盗み聞きとは悪趣味だな。拝聴料は高いよ?」
「幻想即興曲に黒鍵のエチュード。革命のエチュードって……何の冗談ですかっ! て言いたくなりますよ」
「指もつれそう……」
「まあ、一海には無理だね」
「ひ、酷いですよ!!」
「あははっ、一海には無理無理」
「渚まで!……俺、そんなトロイ?」
「「うん」」
「ぐ…………」

 後輩と練習する一時は、癒しにもなり、疲れにもなる。
 声を上げて笑う二人を見つめて、ボクは溜め息とも苦笑ともつかぬ笑みを漏らした。



 練習を終えて、三人で駅までの道のりを歩く。渚と一海は、口喧嘩をしながら先を歩いている。
 正直、入賞は確実だと思ってる。渚も一海も、実際相当上手い。ボクのピアノが無くても、二人なら個々で入賞できるに違いない。
「……先輩?」
 渚が振り返ると、一海も訝しそうな顔でこちらを見た。

 ……そうだ。
 今度のコンクールで、ボクは部活を引退するんだった。
 ボクの進む道は、もう定まっているのだから。

 兄貴に勝つためではなく、兄貴と同じ土俵に立って、気持ちを振り切るために。
 ボク個人として、周りから認められるために。

「……いや、何でもないよ。また明日な」
「? ……お疲れ様でした」



――――コンクールまであと五日。
 ボクの最後のコンクール。
 これで本当にいいのか……?



  Return / Next


BGM:黒鍵のエチュード/ショパン
by Yuki/Little Home on the Web 様