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「……君! 佐伯君!!」
「ん…………」
 目を開けた先には、焦った顔の係員。
「もうすぐ審査発表が始まります!! 一緒に来てください!!」
「…………はい」
 脱いだ上着を羽織るボクに、係員は言った。
「……とても素敵な演奏でしたね。選曲と違った時は驚きましたけど……でも、僕はあの選曲の方が良かったように思います」
「え……」
「さあ、早く行きましょう。他の参加者の方も待っていますよ」
「…………」
 
 係員の言葉の真意は分からない。
 でも、何だか少しだけ、胸の痞えが和らいだ気がする。






「すみません、佐伯君連れてきましたっ」
「良かった! さあ早く、舞台へ!!」
「はい……」

 舞台には、既に参加者が揃っていた。
 皆、緊張に面持ちが硬くなっている。
 ボクは、違う意味で硬くなっていた。

 ……優勝できなかったら、ピアノを辞められない?

 苦しい思いをしながら、この先もピアノを続けていくなんて嫌だ。

「優勝は…………――――瀬川 美波さん」

 ギュッと身を硬くしても、結果は変わらない。
 隣で俯いていた少女が、パッと顔を上げて泣き出した時、ボクは違う意味で泣きそうになった。

 ……優勝出来なかったから、ピアノからは逃れられない……

 グラグラする頭と、ふらふらする足元。
 チカチカする目の前と、ビリビリする指先。
 世界がぐにゃりと歪んで見えるのは、ボクが歪んでいるからか。
 ……気分が悪くて、吐きそうだ。

 その時だった。
 司会者が、慌てたように言葉を発した。

「本来ならばこのような賞は無いのですが……審査員陣立っての希望より、特別に『審査員特別賞』を受賞された奏者がいらっしゃいます」

 え、と思う間もなく。
 スポットライトが照らされ、思わず息を呑んだ。呆然としていると、審査員の一人が立ち上がりボクに微笑みかける。
「この賞を彼に……と強く言ったのは私です。私は、彼の演奏を何年も前から聴いてきました。彼は、技術力、表現力、どれを取っても優秀な奏者です。それは、本日お聴きいただいた皆さんも充分お分かりでしょう」
 彼は、そのまま少しだけ眉を下げる。
「しかし……私には、彼の感情を伺うことが出来なかった。表現力はある。その曲の情景はよく分かる。しかし、彼の感情が読み取れない。彼が何を思って、何を考えて演奏しているのか。それだけが、いつも分からなかった」
「…………」
 何も言えない。
 今となっては、今までのコンクール中に、何を考え、何を思ってピアノを弾いていたかなんて思い出せない。
 きっと、兄貴に勝つことしか考えていなかったんだろう。コンクールで入賞すればするだけ、兄貴に勝てるような気がしていた。ただ、それしか考えていなかっただろう。
「今日の演奏曲は………プログラムとは違っていましたが、彼の想いがよく伝わってきました。技術力は言うまでもないですが、今日やっと、彼の本音が聞けたような気がして……私は嬉しかった。だからこの賞を彼に、と言いました。――――佐伯君、おめでとう」
「あ……」

 ボクの本音?
 今日の演奏は……ボクの音が出せていたの?

 続くように重なる、幾重もの歓声。
 複雑な想いが交錯して、何も考えられない。何も言えない。
 軽くだけ微笑み返して、ボクは舞台を後にした。






 その後、音楽雑誌などでこのコンクールのことが書かれていたのを目にした。
 どうやらボクへの特別賞は、異例であったため反響があったらしい。何度か取材で「選曲を変えた理由」を問われたが、ノーコメントを通した。おかげで、様々な憶測が飛び交っていたが無視した。
 掲載されていた写真のボクは、まさに悲愴に満ち溢れていた。遠くからのショットで、涙が見えていなかったのがせめてもの救いだと思う。

 母さんと兄貴は、何も言わなかった。
 ボクがピアノにあまり触れなくなっても、コンクールへの出場を全て辞退しても。
 ただ時々、母さんが悲しそうな目でピアノを見ていたのだけは覚えている。そして、やはり悲しげなメロディーをピアノで紡ぐのだ。

 それでもボクは、完全にピアノを辞めたわけではなかった。……正確には、辞められなかった。
 それは、祖父母のため。
 小さな頃、兄貴は母方、ボクは父方の実家に預けられていた。家を空けることが多かった両親に代わって、祖父母がボクの面倒を見てくれたのだ。
 二人はボクに、色々なことを教えてくれた。祖父はドイツ人で、綺麗な銀髪と透き通った翡翠色の瞳が印象的だった。
 兄貴と同じ色の髪と瞳。でも、祖父に嫌悪感は無かった。むしろ、祖父といる時だけ、自分も祖父と同じ髪と瞳だったら良かったのに、と思っていた。それを言ったら、祖父は笑って「お前の金髪碧眼の方が、ずっと綺麗だぞ。大切にしなさい」とボクの頭を撫でた。それ以来、この髪の色と目の色がボクの自慢になった。

 そんな二人に、ボクは子供ながらにとても感謝していて。だから、御礼代わりにピアノを弾いていた。二人はいつも、それを嬉しそうに聴いていた。二人の喜ぶ顔を見るのは、ボクも嬉しかった。

 ピアノを辞めたら、きっとじいちゃんとばあちゃんが悲しむ。
 そう思って、完全に辞めることは出来なかった。
 二人の家に遊びに行けばピアノを弾いたし、その時だけはピアノを煩わしく感じなかった。


 でも月日が経って……二人は永遠にいなくなってしまった。
 誰かのために、ピアノを弾くことが無くなったボクは、滅多にピアノに触れなくなった。



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