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3

 舞台の真ん中に立ったボクは、観客を静かに見渡した。

 ピアノ……こんなものに縛られていた自分が、酷く滑稽に思える。
 音楽なんて、所詮は虚構の産物。少なくとも、ボクにとってはそうだった。

 嘘で塗り固められた世界。ボクの気持ちさえも作り上げた夢。
 ああ、ボクは今何故、ここにいるんだろう。むしろ、コンクールに出る意味なんてあるのだろうか。

 ふと、視界の端に映る二人。母さんと兄貴が、ボクを見ている。
 拳に力が入る。

 そうだ。これはもう、ボクの意地なんだ。
 例え兄貴の模倣でも。
 皆が望んでいるのが兄貴の音だったとしても。
 ボクが優勝すれば、その音はボクのもの。 
 それで全て終わる。もうピアノは捨てる。

「佐伯君? 演奏を…」
 司会者がうろたえていたが、ボクはさして気にもとめず、そのまま椅子に座った。そして、指を滑らせた。

「え…この曲は」

 場内がにわかにざわめく。ボクの弾いている曲が、プログラムとは違うからだろう。
 プログラムでは、ゆったりめの三曲になっている。でも今ボクが弾いているのは…

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「幻想即興曲…」

 技術力が必要不可欠なこの曲。難易度もかなり高いこの曲を、敢えて最初に弾いたのはただの意地。幸いなことに、指はこれ以上ないほどによく動く。

 楽譜を見なくても弾けるほど、弾きこんでいる自分が馬鹿馬鹿しくて。
 こんなボクをピアノまでが嘲笑っている気がする。

「っ……!!」

 抑えられない苛立ちを振り切るように、鍵盤を叩き続ける。
 頭の中はドロドロで、何も考えられない。
 ただ、身体が覚えた動きだけが、勝手に再現されているだけ――――……



 観客の拍手にハッとする。
 気付けば一曲、弾き終わっていたらしい。
 こめかみから汗が流れる。
 指先が、燃えるように熱い。

 ……演奏が、こんなに辛く感じるのは初めてだ。



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 二曲目には、「革命のエチュード」を弾いた。
 祖国が陥落され、悲愴の思いを表現したとされる曲。
 ショパンの難曲中の難曲として有名すぎるこの曲は、まさに今のボクにぴったりだ。革命なんて起こせないけど、ピアノを捨てると決めたのだから、ある意味それはボクにとって革命とも言えよう。
 三度の飯よりピアノが好きだったボクが、今はピアノと決別したいと思っているのだから。

 鍵盤が軽い――――ボクの心とは裏腹に。
 ここまで調子がいいと、指が動いているのか、鍵盤が勝手に動いているのかさえも分からなくなってくる。

 つくづく、人をバカにしてくれるよ……

 奥歯をぎりっと噛み締めて、鍵盤を殴り付けるように指を振り下ろした。






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 最終曲にボクが選んだ……いや、勝手に指が弾き始めたのは、ベートーヴェンの「悲愴ソナタ」だった。悲愴、悲愴と続いてしまい、自嘲めいた笑みが零れる。
 コンクールでここまで、悲愴感に満ちた選曲をする奏者も珍しいだろう。しかも、まだ年端もいかない小学生が、何を悲愴するっていうんだ? なんて、バカにされても仕方ない。

 でも……思えばボクは、何となくいつも、兄貴が弾いていた曲ばかりを弾いてきた気がする。
 コンクールで弾くのは、いつも兄貴が挑戦してきた曲。特別に意識していたわけではなかったけれど……やっぱり、対抗意識が働いていたのは否めない事実。
 本当にボクが好きな曲を、好きなように弾いたことなんてあったのだろうか。
 むしろ本当のボクは、いっつもこんな悲愴感を抱えて、絶望していたのではないか? 他人に哀れみの目で見られたくなくて、そんな自分を認めたくなくて、あえて気丈に振舞っていただけではないのか?

「ッ……クソッ……」

 感情が爆発して、身体が、指が言うことをきかない。
 ボクの思いが紡ぎだすのは、悲愴。
 今までボクが抱えてきて、消化し切れなかった思いがピアノから響き出す。

 最後のフレーズを弾いている途中、目の前に兄貴の顔が浮かんだ。

 ピアノを捨てたら……ボクはどうなるんだろう。
 兄貴に勝てるものが、もう何一つ残っていないボクには何の価値も無い。
 母さんも父さんも、兄貴さえいればどうでもいいのだろう。


 ボクがいなくても……


 目の前がぼんやりと霞む。
 曲が終わりを告げた時、止まった手の甲に雫が落ちた。
 全身が痺れて呆然とする中、ボクは自分が泣いているのだと気付いた。


――――ワァーーーーーーーーーーーッ!!!!!!!!!


 静まった会場が、一気に沸き立つ。
 拍手と歓声が、ボクの周りを覆い尽くす。
 フ…と、視線だけ移した先には、立ち上がって手を叩く母さんと兄貴がいた。

「…………」

 酸欠にも似たふらつきに耐えながら、一礼する。
 歓声がさらに強まる。
 この時になって初めて、あぁ、ボクは弾き終わったんだ……と実感する。






 そのまま控え室へと戻ったボクは、上着とネクタイを脱ぎ捨てて、ソファーに倒れ込んだ。
 心臓がバクバクと波打って、息が苦しい。
 手首から先が痙攣していて、震えが止まらない。ついでに、目から零れる雫も止まらなかった。

「……バカみたい……」

 弾きたい曲を弾いたら、我を忘れた。
 規定の時間もオーバーしたし、何よりも曲を勝手に変えたのだ。優勝なんて絶対に出来るわけもない。
 分かっていたのに、やってしまったのは何故なのか。……理由なんて、何も思い浮かばない。
 あれだけ激しく啖呵を切っておいて、こんな無様な姿を晒したくない。
 いつもなら、普通に考えれば分かるはずのことだ。なのに、出来なかった。身体が言うことを利かなかった。


 ……ボクは、一体何のために……
 ………………
 …………
 ……
 …





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BGM:革命のエチュード/ショパン
悲愴ソナタ(第3楽章)/ベートーヴェン 
by Yuki/Little Home on the Web 様