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でもある日、それは突然崩れた。
12歳の時。
コンクールに出場したボクは、控え室に行く途中である会話を聞いた。
「今日の出場者の、巴里君っているじゃない?」
「知ってるー! あの超可愛い子だよね?」
ミーハーな女たちか……と、その場を通り過ぎようとした時だった。
「そうそう。それがさ、彼ってあの佐伯雅輝の弟らしいよ!」
「嘘っ!? どうりで似てると思った〜」
「うんうん。音がそっくりだよねー。そう言えば兄の方は、最近全く見ないけど……」
「そう言えばそうだね。でも、弟クンの方が今じゃあ断然上手いんじゃない?」
「確かに……。兄の方は、もう2年くらい見てないもんね。音楽では、弟にその舞台を譲ったって感じかな?」
「アハハ、あり得るー! なんかさ、うちらみたいな凡人には分からないから言えるけど、あんな兄を持ったら、結構辛そうだよね! 何でも出来ちゃう兄って、憧れだけど、すごい劣等感感じそう……」
「そうだよね……。ま、巴里クンのこれからに期待期待!」
「しっかり応援しなくちゃね」
――――音がそっくり。
この言葉に、ボクは金槌で頭を殴られたような衝撃を受けた。
ボクは、兄貴の音を無意識のうちに真似てしまっていたのだろうか。
ボクの音だと思っているこの音も、もしかしたらボク自身のものではないのかもしれない。
気分が沈み、ふらつきながら控え室に戻ろうとしたボクに、さらに追い討ちをかけるような光景が飛び込んできた。
控え室には、母さんと兄貴がいた。
「巴里ったら、まだなのかしら?」
「トイレにしては、少し長いかもしれないね」
「ねえ雅輝……どうして貴方はピアノをやめてしまったの?」
母さんの口から出た問いかけに、ボクは息を呑んだ。伸ばした手は、ドアノブを掴んだまま、動けなかった。
「フフッ……ピアノなら、巴里がちゃんと弾いてくれているよ?」
「それはそうだけど……」
母さんは、少し逡巡した後、躊躇いがちに呟いた。
「でも……あの子の音は、貴方の模倣に過ぎないわ……。あれはあの子の音じゃない。あの音は、貴方を追う音なのよ……」
「っ……」
声が出なかった。
ドアノブを掴む手が震える。
膝が笑って、まともに立つことさえ出来ない。
――動けない。
「母さん……巴里は、ピアノが好きなんだよ」
「……そうね。でも私はやっぱり、貴方にピアノを弾いてほしかった。巴里が駄目っていうわけじゃないのよ? ただ、自分の音が出せないのはあの子も相当辛いと思うの。今は思わなくても、この先きっと……」
「母さん……」
「ごめんなさいね……雅輝。でも、私もピアニストだったから分かるの。あの子がこの先傷付くのは、私が耐えられないのよ……。あの子の努力は、私も認めてる。でも、自分の音が無いピアニストには未来は無い。これも事実なの。現に私は、それで夢を諦めていった同士を、何人も見ているわ。技術の問題じゃないの。でも私も、やっぱり貴方達には音楽を奏でていってもらいたい。ピアノを弾いてほしいのよ……」
「……たとえ今はオレの模倣でも、いつかきっと、アイツだけの音が出せるようになるよ」
ボクは、無言で立ち尽くしていた。
どうすればいい?
どうやって、この場を切り抜ければいい?
「それに――」
兄貴が、母さんに強い眼差しを向けたのが見えた。
「アイツは、誰よりもピアノを愛してるよ。オレじゃ敵わない。本気で好きな奴が弾くピアノには、絶対勝てない」
――兄貴……
その後、母さんが少し泣いていたのを覚えているが、ボクはそれどころじゃなかった。
自分のやってきたことを、全て否定された気になっていた。
出番はもうすぐで、今更どうすることも出来ない。
でも、心の中は逃げ出したい気持ちでいっぱいだった。
楽譜をぎゅっと握り締める。
練習を重ねて、重ねて、やっと辿り着いたこの場所。
けれどそれは、自分の音が――佐伯巴里という人間が奏でる音が――認められたのではなかったのだ。兄という人物の音が、ボクという媒体を通して人々に響いているだけ。認められたのは、結局は兄貴だった。
母さんの言葉が、頭の中を反芻する。
――――貴方を追う音なのよ……
兄貴に負けないように、今まで頑張ってきたのに……結局は、ボクは兄貴の模倣しか出来ていなかったんだ。
そう思うと、涙が出るほど悔しかった。
あの努力は、全部無意味なものだったのだと思うと、やるせない気持ちでいっぱいになる。
同時に、ピアノを教えた母親も、ピアノ自体も、とても嫌なものに思えてきた。
「ピアノなんて……やらなければ良かった……」
そうすれば、こんな思いしなくてすんだのに……・。
今までだって、何もかも全て兄貴が先を進んでいった。
ボクは結局、兄貴が歩いたレールを続くだけ。
ずっとそうだった。
でも、ピアノは……ピアノだけが、ボクをそのレールから解き放ってくれる唯一のものだと信じていた。
兄という壁が無い、ボク自身が作るレールの上に、ピアノはずっとあると思っていた。
思っていたのに……。
「……ックソ……」
握り締めた楽譜が、その皺を深くする。
悔しい。苦しい。悲しい。寂しい。辛い……
そんな負の感情が、心を満たしていくのが分かる。
それと同時に、ピアノは所詮、兄貴に負けないものが欲しかった自分の逃げ場なんだと再確認した。
好きだからピアノを練習していた……それは建前。
本当は、ピアノだけしか兄貴に勝てるものが無かったから、それを正当化するための偽りの感情だったんだ。
ピアノが好きなんじゃない。手段に過ぎなかったんだ。
でももう……その手段も絶たれた。
結局ピアノでも、兄貴を越えられない。
誰もボクのピアノを聞いてない。聞いてるのは、兄貴の音。
ボクは一体、何のためにピアノを弾くのだろう。
もう、ピアノを弾く意義さえ見出せない。
ボクはもう、ピアノをやめるんだろうか?
出番が段々近付いてくる。
そんな時、控え室前のベンチに腰掛けていたボクに、驚いた様子で近付く二つの影。
「……母さん、兄貴」
「巴里! どこに行ってたの?」
「もうすぐ、出番なんじゃないのか?」
「……」
無言のまま、俯くボクを見た二人は、はっと息を呑んだようだった。母さんが、慌てた様子でボクを覗き込んだ。
「巴里、貴方まさか……さっきの話聞いて……」
「うん……聞いたよ」
兄貴が、辛そうな表情で視線を逸らした。そりゃ複雑だろうね。
「ぱ、巴里……私は、貴方のことが大切なのっ! だから――」
「もういいよ、別に」
立ち上がったボクを、母さんは心配そうに見つめる。
ボクは、感情を全て押し殺して言った。
「……ボクは、このコンクールで絶対優勝してみせる」
「巴里……」
拳を握り締め、二人を睨みつけたボクは、そのまま言い放った。
「そしたらその場で、ボクはピアニストなんて辞めてやる! 母さんの跡なんて継がない! 誰かと比べられるピアノなんて、もう沢山だ!! こっちから辞めてやるよ!!!」
一気に言って、そのまま後ろを振り返らずに舞台へと向かった。
背後では、母さんと兄貴の声が響いていたが、ボクの心には届かなかった。
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