軽やかなメロディーが、夜に溶けていく。
開いた窓から、美しい旋律が流れてく。
今夜は、とても気分がいい。
目を閉じて、心のままに指を躍らせる。
何のしがらみのない、音の世界にいる自分。
競い合うわけでもない。
ただ、自分のために、自分の演奏を聞いてくれる人のためにだけ弾くピアノが、こんなにも心地よいものだと知ったのは、つい最近。……いや、もっと昔から知っていたのだけれど、それに浸る余裕がなかったのだと思う。
棚の上に飾られたトロフィー。
――――International Music Festival 20××
The student division of this festival――the very best of award,
Pari S, Kazumi S, Nagisa S.
Congratulation! I hope that you will practice hard, so your music skill
is up moreover.
横に置かれた写真立て。もう二度と戻れないあの頃を映し出す。
目を閉じれば今も聞こえる、ヴァイオリンとチェロの音。
ああ……そういえば、あの日もこんなに、月が綺麗だった。
月の輝きの中に、そっと記憶の糸を手繰り寄せれば……あの頃の自分が、戻ってくる――
Radiance Concerto
1
――――大学三年、秋
「佐伯せんぱーい! 次のコンクールの準備、出来てます?」
「……」
「先輩! 聞いてますか!? あと一週間しかないんですよ! 大丈夫なんですか?」
「多分ね」
「も〜っ!」
頬杖を付きながら楽譜に目をやるボクに、瀬川渚<せがわ なぎさ>は頬を膨らませて怒った。
「先輩っ、どうしてそんなにやる気ないんですか!? 練習しなかったら、いくら先輩の腕だって、次のコンクールは危ないってことくらい、分かってるはずですよねっ?」
「まあまあ渚……」
「止めないで、一海! アンタだって、コンクール入賞したいでしょ!?」
「まあそれは……」
「だったら一緒に、先輩を練習させるのよ!」
いきり立つ渚に、大きくため息をつくのは白井一海<しらい かずみ>。二人は音楽部の後輩兼、ピアノトリオのメンバーだ。
「そういうオマエこそ、練習は出来てるわけ?」
「も、もちろんです!」
「一海、オマエは?」
「は、はいっ」
二人は、途端に緊張した面持ちで答えた。楽譜を閉じて立ち上がったボクは、そのまま教室の出口へ向かう。
「せ、先輩?」
「ほら、何ぼさっとしてんだ。練習するんだろ?」
「は、はいっ!!」
慌てて後をついてくる二人の後輩に、ボクは何とも言えない気持ちを抱く。
……複雑だ。
心の中で、大きく溜め息をついた。
「とりあえず、出来るとこまで合わせてみるか……渚、一海、どこまでやってある?」
「一通りは出来てる……つもりです」
「俺も、多分平気です」
「OK。じゃあ、早速やるよ」
椅子に座ったボクに、渚が慌てた。
「で、でも先輩? まだ譜読み終わってないんじゃ……」
ボクは溜め息を一つ。
「……渚。仮にもボクは、オマエのセンパイだよ? 悪いけど、心配されるほど落ちぶれてないから」
「で、でも――」
「渚っ、もういいから。すいません佐伯先輩、早く練習始めましょう」
「一海、私はっ……」
なおも渋る渚。まあ、渚の言い分は尤もだから、仕方ないけど。
「……分かった。でもまずは、やってみてから文句なり何なり言えよ」
ボクが指を慣らし始めると、渚は渋々バイオリンを取る。一海は、ほっとした様子でチェロを抱えた。
ピアノトリオ――ピアノ三重奏をこのメンバーで組んだのは、去年の初夏。
国立外語大――通称外大と呼ばれるうちの大学は、その名称通り国際派。日本人以外の人種も沢山在籍している。交換留学制度が充実していて、在学期間の半分はどこかしらに留学するのが基本だ。授業は英語が主で、他仏語・独語・中国語なども選択できる。
そんな、異国文化の交流地である大学で、唯一なんのしがらみもなく共有できるのは音楽とスポーツだった。特に音楽は、国境を越えて等しい存在。昔からピアノと付き合ってきたボクは、何となく音楽部に入部した。実は、そこらの音大以上のレベルを誇っている部だと知ったのは、随分後。しかも幸か不幸か、音楽部でピアノを専門にしているのはボク以外に二人しかいなかった。一人はフランス人の女。そしてもう一人は、ロシア人の男。二人とも、超絶技巧を駆使する、プロ顔負けの実力者たちだった。まあ、ボクも二人に負けない自信はあったけど。
コンクール、『国際音楽祭』は、音楽の世界大会。アマチュアからプロまで、幅広い層が出場する、まさに音楽の祭典だ。このコンクールは、部門別に行われていて、ボクたちは学生の部に属している。このコンクールで入賞することは、音楽を嗜む者にとって、一種のステータスになる。むしろ、誰もが羨む栄光を手にしたと言っても過言ではない。それでこの大会、ソロでも勿論出場可能なのだが、学生においては、基本「グループ」での出場が義務付けられている。参加数が莫大なため、少しでも多く参加できるようにする工夫なのだろう。よって、この大会に出場するためには、部活全体か、チームを組むかの二択となる。
オーケストラで出るのが普通……と思うかもしれないが、実は大人数で練習するのは難しい。一人一人やりたい曲も、感性も違うため、どうしても音に揺らぎが出てしまう。普段なら何てことないのだが、音楽祭の出場がかかってるとなると話は別だ。結局は、気の合う仲間数人でグループを組むのが主流となっている。
ボクはピアノ専門だから、チームを組むとなると、連弾かピアノトリオ、弦楽器の伴奏のどれかになることが多い。一年の時は、センパイの伴奏を引き受けたけど……何か物足りなかった。引き立て役は、はっきり言って面白くない。それで、二年になった時に、連弾かピアノトリオをやろうと思っていた。
そんな矢先に、二人の後輩が飛び込んできた。渚と一海だ。渚は、三歳の時からヴァイオリンを嗜んでいて、かなりの腕前を持っていた。一海はチェロ奏者。技術力は人並みだが、表現力は群を抜いて突出していた。中々面白そうな奴らだと思っていたら、向こうから声をかけてきたのだ。「一緒に、ピアノトリオを組んでもらえないか?」と。その時既に、先輩は卒業してしまっていて、ピアノ専門なのはボクくらいしかいなかった。ボクは特に躊躇うことなくOKした。
それから一年。今度のコンクールで、四度目になるこのピアノトリオ。元々の才能のおかげなのか、チームプレーが良いのかは謎だが、とにかく今まで入賞し続けていた。ピアノトリオを組む他の学生が少ない分、珍しさが功を奏したらしい。おかげで、我が音楽部の部費は鰻上り。ボクたちは、部でも一目置かれる存在になっていた。
「準備はいい? 始めるよ」
途端に、緊張した空気が漂い始める。渚も一海も、奏者の顔になっている。一呼吸置いて、ボクは指を躍らせた。
渚の音が、ボクらを先導するように響く。
一海の音が、安定感を作り出す。
そしてボクのピアノが、全体の調和を調える。
三種の音が、まるで螺旋を描くかのように響き合う……これがピアノトリオだ。
「っ……」
途中、渚の音が歪んだ。どうやら、苦手なパートらしい。渚は、悔しそうな、苦しそうな顔で必死に演奏を続けている。ボクは、音の小さくなっていく渚に代わるように、少しずつピアノの音を大きくしていった。一海も、ボクの意図に気付いたのか、逆に音を小さくしていった。ボクらの動きに気付いた渚は、申し訳なさそうな視線を双方に向け、また真剣な表情で落ち着きを取り戻していった。渚が戻ってきたことを悟ると、ボクはまた音を小さくし、一海は大きくした。
最後のフレーズは、それぞれのソロパートがある。まずは渚、そして一海。最後の締めはピアノのボク。多少、音の危うい部分はありつつも、二人とも弾きあげた。ボクもまた、指を動かす――――。
「……はぁ、疲れた」
一海が、チェロを抱え込んでため息をついた。ボクは大して見もしなかった楽譜を閉じ、腕を伸ばす。
「一海、結構弾けてたじゃん?」
「そ、そうですかね?」
「ま、まだまだだけど」
「あ、あはは……」
苦笑いする一海に、ボクはやっぱり複雑な気分になった。ふと視線をずらすと、渚が俯いたまま立ちすくんでいる。
「渚……どうした?」
すると、渚はヴァイオリンを立て掛け、その場で頭を下げた。
「先輩っ、すみませんでした!」
「は?」
渚はそのまま続ける。
「私、……私なんて、まだまだ未熟なのに、先輩に偉そうなことばっかり言って……本当に自分が恥ずかしいです!」
そう涙声で謝る渚に、ボクは大きくため息をつく。
ったく……。
「……ホント、偉そうな後輩だよね」
「う……」
「でも、お前のそういうところ、ボクは結構気に入ってるけどね」
「うぇ……!?」
渚が変な声を上げる。一海は目を見開いている。……何か変なこと言ったか?
「……オマエも一海も、どうしてそこまで頑張れるのかね……」
ボクは、誰にも聞こえないくらいの呟きを零すと、渚の前に立った。
「渚、ちょっと借りるよ?」
「?」
渚が顔を上げるより早く、ヴァイオリンを取る。そして、弦を握り、腕を引いた。
「!?」
「先輩……ヴァイオリンも弾けたんですか……?」
返事代わりに、薄く微笑む。それを見た渚と一海は、顔を見合わせていた。
久々なこの感触。
不思議なもので、何年も触れてもいなかったのに、昔叩き込まれた指の動きを、身体は覚えている――……勝手に動くのだ。
――――「巴里はヴァイオリンも弾けるのね……」
ボクにとっての音楽は…………
母さん……ボクはピアノが…………
「――!?」
音が途切れた時、ボクは初めて自分が二人の後輩から拍手を受けている、ということに気づいた。一海は興奮状態といった様子で、渚にいたっては呆然としている。
「……佐伯先輩っ、俺、感動です! 先輩とトリオ組んでること……今更ながらに感謝してます」
「何だよ……突然。一海、興奮しすぎ」
「先輩……ヴァイオリンも弾けるなんて、出来過ぎですよ! でも、本当に……尊敬します」
「……」
賛辞を貰っても、全く心に響かないのは多分、ボク自身何のために演奏をするのか……ということに考えあぐねているからだ。 そんな気持ちをしまい込んで、挑発的な笑みを浮かべ渚に向き直る。
「……まあね。だから言ったろ? 後輩に心配されるほど、落ちぶれちゃいないってね」
「はい……本当、すみま――」
紡がれそうになった言葉を遮るように、ボクは渚の頭を軽く小突いた。
「ストップ。謝る必要なんてないよ。オマエの方が、ボクの何倍も上手いんだし」
「え……」
「勿論、ヴァイオリンがってことだけど。でも……ホントお前らはよく頑張ってるよ」
ボクはヴァイオリンを渚に手渡して、窓際に寄りかかった。
「ホントに……どうしてここまで頑張れるんだか……」
「先輩……?」
よく分からない。
ピアノが好き。それは本当。
でも、それでピアノを弾いているわけではない気がする。
音楽に付き纏うのは、他人との比較。上手いか下手か。そんな鎖がオレを縛る。
コンクールに出る意義が見出せない。
でも、オレはコンクールに出る。何故?
入賞することなんてホントはそこまで望んでいない。
でも、コンクールには出たい。それも本当。
何故? じゃあどうしてコンクールに出る?
「……なあ、オマエらはさ……」
呟きが聞こえたのか、二人は黙ったまま視線だけを向けてきた。
「何のためにコンクールに出るか、考えたことある?」
二人の目が、驚いたように開かれる。
「何のために、自分が音を奏でるか……そもそも、どうしてその楽器を弾いているか……考えたことある?」
「……」
黙ってしまった二人に、ボクは苦笑した。こんな問い掛け、馬鹿げてる。
「……フフッ…、そんな考え込むなよ。って、こんな話振ったボクのせいか。悪い悪い」
「先輩……私……」
何か言いかけた渚。でもボクは、それを敢えて遮った。
「渚。とにかく、お前のヴァイオリンの腕は本物。ボクが保障してやるよ」
「っ……」
渚の瞳が、大きく揺れた。
「一海……オマエがいると、音が安定する。オマエはチームに不可欠な存在だよ」
「佐伯先輩……」
「――――さて、今日はこの辺でいいよね? 渚はさっきのパート、もうちょっと弾き込めよ。一海は、渚に比べるとテンポが遅くなりがちだから、もうちょっと勢い付けてついてくること。OK?」
「「は、はいっ」」
重なった声に苦笑しながら、楽譜を抱えて扉を開け放つ。
「じゃあね。もう遅いし、気を付けて帰れよ」
「お、お疲れ様でした!」
「せ、先輩っ……」
「ん?」
渚が駆け寄ってくる。
「その……明日も、練習……」
口篭る渚に、またも大きなため息が出る。……ホント、手の掛かる後輩だよ。
「16時に練習室。遅刻したら、どうなるか分かってるよね?」
顔を上げた渚は、至極嬉しそうに微笑んだ。
「はいっ!」
帰り道。さっきの問いかけを、自分自身にしてみる。
ピアノを弾く理由。
それはきっと――――
「兄貴……」
兄貴を越えるため。ただ、それだけの理由だった……ハズだった。今までは。
何でも出来る兄。
勉強も運動も、何もかも、兄貴はパーフェクトだった。勿論ボクだって、兄貴に勝るとも劣らない自信はあった。でも、常に自分の先を行く兄貴は、ボクにとって指標を通り越して、いつも先に立ちはだかる壁だった。
ピアノは……そんなボクが、唯一兄貴を負かすことが出来るものだった。
始めたのはほぼ同時期。いや、兄貴の方が早かったかもしれない。でも、兄貴にとってのピアノは、その他沢山の「嗜み」の一つに過ぎなかった。
母さんは、結婚する前まで世界的に有名なピアニストだった。父さんも、音楽界に精通していたこともあって、音楽に関しては小さい時から叩き込まれた。ピアノは、音楽を嗜む者は必ず習うモノ。いわば、音楽の基盤、基礎だ。ボクと兄貴は、ピアノの傍ら別の楽器も練習させられた。それがボクの場合はヴァイオリンだった。
ヴァイオリンも、嫌いじゃない。叩き込まれた感はあるけれど、そこまで苦痛に感じたことはなかった。でも、ピアノに比べたら、それは天と地ほどの差がある。ピアノの方が、何十倍も弾いていて楽しかった。気付いた時には、ボクはピアノに魅入られていた。練習させられているなんて微塵も感じない。好きだから弾いているんだと、心から思っていた。
その時初めて思ったんだ。
そうだ。ボクにはピアノがある。これだけは、兄貴に負けない。絶対に……。
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