第六章 「涙のヤケ食い選手権」





「おばちゃん! ラーメン三杯と、カレー二杯と、ピザ一枚追加ね! あ、あとデザートにチョコレートケーキホールで!」
 僕は、納豆まきを頬張りながら叫んだ。おばちゃんは、呆れた顔を向けると、「はいよ」とだけ返事した。全く、こんないい客に向かってなんて態度だ。僕はおばちゃんにあっかんべーをすると、目の前のかっぱ巻きを口に詰め込んだ。

 ここは言わずと知れた警視庁の社員食堂だ。今は丁度お昼のピークが過ぎ、人もまばらになったというところか。
 しかし、今日は僕のオーダーを最後に、この社食を閉めることになるだろう。
 理由は簡単。僕が食券を全て買いつくしたからだ。
 僕の目の前には、既に大量の皿が重ねられている。多分、このまま行くと大食い選手権もびっくりな記録が出せそうな気がする。ああ、ここにビールが無いのが非常に悔やまれる! こういう時はビールを瓶のまま、一気に飲み干したい! ぐいっとぐいっと。そしてげふぅっと大きくゲップをして、にかっと笑うんだ。
「ラーメン三杯お待ちどうさま」
 ラーメンが三杯、どんっと置かれた。おばちゃんの嫌がらせなのか、ナルトが入っていなかった。僕はおばちゃんをきっと睨むと、自分のほっぺを指差しながら「にんにん」とナルトマークを描いた。が、おばちゃんは無視して行ってしまった。僕はにんにんと呟きながら、ラーメンを一気に吸い込んだ。

 ……僕のこの光景。まさしく『ヤケ食い』だ。
 さっきのことを思い出して僕は、思わず涙が出そうになった。

 麻衣が……怒った。しかも、かなり本気で。
 自慢じゃないが、僕は今まで誰かに怒られたり、注意された経験があまりない。というのも、仕事をミスしたり、道徳に反する行いをしたことがないからだ。
 友人を怒らせた記憶もないし、また怒った経験もあまりない。
 麻衣は、あまり感情の起伏が激しくない方だ。どちらかと言えば、何事もあっさりと受け入れる。でも、僕は知ってる。本当は、心の中ではものすごく喜んでいたり、悲しんでいたり、怒っていたりするんだ、彼女は。
 でも! それでも顔に出して本気で怒る彼女を見たのは初めてで、僕は思わず面食らってしまった。普段温厚な人が怒ると怖い、という話を聞いたことがあるが、それは本当だと思う。アイツでさえ、驚いていたようだった。くそっ、アイツのせいで、僕たちの仲に亀裂が入ってしまったじゃないかよ! 許せん、巴里! アイツは僕の敵だ。
「はい、カレーとピザだよ!」
「そこに置いておいて! あとティッシュくれ」
 僕はおばちゃんに向かって叫んだが、またも無視された。酷いや。

 僕はその後も、おばちゃんとの攻防を続けたが、ついにおばちゃんは負けを認めたのか、うんざりした様子でお茶をサービスしてくれた。
「……あんたにも色々あるんだろうね。若いのに、大変なのかい?」
「ええ! もう!」
「……そうかい。まあ、頑張りなよ」
「はい! また明日も来ます!」
「……もう会うこともないだろうよ」
「……」
 おばちゃんは、僕に背を向けるとそのまま行ってしまった。きっともう、この社員食堂であのおばちゃんを見かけることはないだろう。多分今日付けで、ここを辞めるだろうなと僕は思った。新しい就職先はきっと、桜田門の駅前の「よさこい食堂」だろう。(勝手に決めるな)今度訪ねてみようと僕は決意した。そして、小さくなっていくおばちゃんの後姿に向かって、「さよなら」と呟くと、僕はまたがつがつと食べ始めた。

「おい、何やってんだ?」
 背後から声を掛けられて、僕は口をもひもひさせながら振り返る。
 見ればそれは、僕の元先輩であり(今でも一応先輩だ)また、捜査一課巡査部長でもある、大塚先輩だった。最近は、僕がずっと特捜課に通い詰めていたため、めっきり会うことが少なくなっていた。尤も、僕はその間研修に行っていたということになっているのだが。
 約三ヶ月ぶりくらいだろうか? つい最近までは、毎日一緒に行動していたことを思うと、何だか少しだけ淋しかった。先輩は、僕の向い側に腰掛ける。
「ほほふはへんぱひ、ぼうひはんへふか?(大塚先輩、どうしたんですか)」
「……食べながら話すなよ」
「ふぁひ、ふいはへむ(はい、すいません)」
 僕は水を一気に飲み、口の中のものを胃に流し込んだ。うぷっ……喉まで食べ物で埋め尽くされてる感じがする。……下を向いた瞬間に逆流するだろう。
「んく……ごくんっ……。ふぅ、食べた食べた。さあ、これで大丈夫です。どうしたんですか?」
 僕があっけらかんと答えると、先輩は呆れた眼差しを僕に向けた。
「……どうしたんですか? じゃねえよ。お前、仕事もしないで何やってんだよ」
「へ? だって僕今日は非番の日ですよ? たまたま砂原警視に用事があったんで来ただけです。先輩こそ、こんなとこでさぼってていいんですか? また上から文句言われますよ」
「相変わらず仕事熱心だなオイ。でもな、北林。今ではそんなお前が懐かしいぜ。ていうか今すぐお前に戻ってきてほしいくらいだ……」
 そうこぼす先輩は、かなり切実そうだった。僕は先輩と久々に話せて嬉しい反面、そんな先輩を訝しく思い、話を聞いてみることにした。
「一体どうしたんですか? 何でそんなに疲労困憊してるんです? あ、分かりましたよ。また、お金使い込んだことが上にばれてお咎め喰らったんでしょう?」
「ちげーよ! ……ったく、俺はそこまで悪人じゃねえっての」
「それは失礼しました。じゃあ何だろう。あ、もしかして他部署の女の子に手を出して、訴えられたとか? 先輩女性に手が早いって有名でしたもんね」
「……お前さ、俺の話本当に聞く気あんのか?」
「もちろんですよ。だからこうやって、色々確かめてるんじゃないですか」
 僕はいたって真剣だ。でも、先輩は大きくため息をつく。
「……そうかよ。とにかく、女絡みってのは正解だな」
「やっぱり。で、何して訴えられたんですか? いい弁護士紹介しますよ。ほら、先輩もご存知でしょう? 貴方の後輩で、法廷の女神っていう異名を持つ弁護士、津久井――」
「だーっ! 勝手に想像で話を進めるな! いいか、俺が困ってるのは、お前の後釜として俺が指導してる奴のことだ!」
 突然先輩が叫んだので、僕は思わず胃が縮こまった。てか、折角津久井さんを紹介してあげようと思ったのに、僕の善意が無駄になったじゃないか(むしろ大塚は津久井を知っているのだが……)うぷっ……やばい、吐きそうだ。
 僕は何とかそれを堪えて、平静を装った。
「……つまり、それって新しく捜査一課に配属された新人さんってことですか?」
「そうだ。本当は交通課に配属されてたらしんだけどよ、何でもすげえやり手とか何とかで、交通課に置いておくのは勿体無いとか上が言いやがった。んで、急遽捜査一課に仮配属されて、今に至るってわけ。丁度三ヶ月前くらいだな。お前が研修に行ってたらへんか?」
 先輩はここで、拳を握り締める。
「それでそいつがよ……顔は……百歩譲って可愛い部類に入るだろうよ。だけどな、几帳面ていうか何ていうか、とにかく一々うるせえんだよ。指導を受けてるっていう意識が全くなくてよ、俺をコケにするわ、足蹴にするわ、文句は言うわ、可愛くないわで、本当参ってるんだよ。お前も最初は、馬鹿みたいに熱血してて生真面目で、正直やってらんねーとか思ったけどよ……今はどれだけお前が良い奴だったかを身に染みて感じてるぜ」
「……佐伯巴里のようだ」
 先輩が涙ながらに語るのを聞き、ついぽろりとこぼしてしまった。
 慌てて口を閉じるがもう遅い。僕が捜査一課から、特捜課へ異動したのは誰にも話してはいけないんだ。先輩は、麻衣が特捜課だということは知っているが、僕のことはまだ捜査一課だと信じているはずだ。だから、僕が佐伯巴里のことを知っているのはどう考えてもおかしい。というか、それらを突っ込まれたら僕は一貫の終わりだった。
 しかし、僕のこの不安は杞憂に終わったようだ。
「佐伯……だと!?」
「え? 先輩も知ってるんですか!?」
「……知ってるも何も、お前が来る前に俺が指導してたんだよ」
「ぶはぁっ!」
 僕は驚きのあまり、思わずさっき食べたラーメンを鼻から出してしまった。しかも、両方の穴から……。幸いなことに先輩は、机に突っ伏していたため、この惨状を見なかったようだ。というか、今ので更に吐き気が強まった。
 僕は鼻をかみながら、そして込み上げてくるものに耐えながら、先輩に矢継ぎ早に問いかけた。
「ど、どういうことですか!? つまり僕の前に先輩は巴里なんかを指導してたってわけですか? じゃあ奴はなんでイギリスに研修になんか行けたんですか!? どうして僕は先輩の下で頑張ってたのに、何もなかったんですか!? どうして僕だけが奴の存在を知らずに今まで生きていたんですか!? ねえ! どうして麻衣とあんなに親しいんですか!? 一体奴は何者なんです!?」
 一気に捲し立てたため、息が続かなった僕はここで一端話を切り、テーブルにあった水をピッチャーごと飲み干した。うげっ……やばい。もう逆流まで秒読みが開始された。(おい)
「ああ……お前も相当キテるみたいだな。ていうか、何で佐伯のことそんなに詳しいんだ? 今日ロンドンから戻ってきたばかりらしいのに、お前どこでそんな情報……それに、岡野と佐伯が親しいって誰に聞いた?」
「へ……いや、その、ぼ、僕……」
 僕は血の気がすうっと引くのが分かった。やばい、これは本当にまずい。先輩は僕のことを明らかに疑っている。どうしよう、どうしよう……!!
「北林……お前俺に何か隠してるな? 吐けよ」
「せ、先輩っ、ぼ、僕、あの……その……」
「あぁ? 何だよ?」
 ごめん麻衣! ごめんなさい警視! 僕は警察官……いや、特捜課失格だ!! こんな簡単に自分の正体明かしちゃうなんて、特捜課の風上にもおけないくらい最悪に間抜けだ! すいませんすいません! でももう、話すしかないんだ……!!
「実は僕……捜査一課からとく――」
「大塚先輩! こんなとこにいたんですね! 何仕事さぼってんですか!?」
 僕の言葉は遮られ、代わりに響いたのは可愛らしい女の子の声だった。僕は思わず振り返る。
「げ……もう見つかったか」
 大塚先輩はがっくりと項垂れた。

 振り返った先にいたのは、まだ高校生のような童顔の女の子だった。
 肩の上くらいの髪、くりっとした双方の瞳は、あどけなさと知性が交じり合ったような、美しい光を宿している。
 今まで出会ってきた女性の中でも、彼女のような子はあまりいなかった気がする。
 小柄だが、それが返って彼女の魅力を引き出している。とにかく、利発で活発な女の子……という印象を受けた。

「あの……貴方は?」
 女の子は、怪訝な顔で僕と先輩を見比べている。僕は、慌てて自己紹介をする。
「わっ、ごめんね。僕は捜査一課の北林義高。ここ三ヶ月くらい地方へ研修に行ってたから、君と会うのは初めてだね」
 女の子は姿勢を正すと、はきはきとした口調で答える。
「申し遅れました! 私は、三ヶ月前よりこの捜査一課に配属されました、白瀬夏枝と申します。今は大塚先輩に色々指導していただいてます」
「へえ……じゃあ君が先輩の言ってた新人さん? 実はね、僕も君の前に先輩に指導を受けてたんだよ」
「そ、そうなんですか!? ……はっ! もしかして、北林さんって……あの『桜山荘』の事件を解決なさって一躍有名になられた方ですか!?」
「え? ああ、まあそういうことになるのかな」
「す、すごいです! 私ずっと憧れてて、どんな方か是非一度お話してみたかったんです!」
 目を輝かさせながら僕を見つめる白瀬さんに、僕は照れ笑いを浮かべて頭を掻いた。
「いやあ、そんなに言われると照れるな〜、あはは……って、白瀬さん……君、どうしてその話知ってるの!?」
 僕は焦りながら問いかけた。あの事件は、誰も……いや、関係者以外には知る由もない事件なはずだ。でも何故彼女は知っているのだろう? 
 しかし、彼女は何でもないことのように答えた。
「へ? 何でって言われても、最初にここの研修受けた時に、砂原警視が見せてくれましたよ。最初は、火曜サスペンスかと思っちゃいましたけど」
「はぁっ!?」
 僕は思わず椅子から落ちそうになった。
 警視が見せた……だって!?
 僕は口から泡を吹きそうになりながら、必死に大塚先輩を見つめた。すると、先輩は苦笑いをしつつも、僕に「大丈夫だ」と伝えた。
「せ、先輩……」
 一体何が大丈夫だって言うんだ?! あれには、僕たちの恥ずかしい過去や、もう二度と言えないであろう、有り得ない台詞が詰まっているんだ! そんなものがむやみやたらに鑑賞なんてされてるとしたら、僕だけじゃない。麻衣や津久井さんたちだって、きっと激怒するに違いない。警視は人間として最低だし、日本の警察を心の底から憎むだろう。
 しかし、白瀬さんが続けたのは、以外な言葉だった。
「あの話って、北林さんともう一人、岡野さんっていう女の方が主人公のモデルなんですよね? 何だか、B級の売れない役者が主人公役をやってたみたいですけど、トリックの暴き方とか、まるで推理小説のようですごいかっこよかったです!! しかも、北林さんって、設定通りの方なんですね!」
「は……? 役者? 設定?」
 僕がぽかんとしていると、白瀬さんはきょとんとした顔をした。
「え? だから、北林さんは容姿端麗、頭脳明晰の期待のルーキーっていうふうに、紹介されてたんですよ。でも、実際お会いしたら本当に、思っていた以上に素敵な方で……本当感激です!」
「えっ……つ、つまりは」
「そう。お前たちの活躍を収めたテープから、警視庁が宣伝のために(何のだよ)役者使ってドラマを作ったんだよ。お前たちの素性は一切明かされていないし、まして顔が割れることはないだろうよ……捜査一課以外の奴らには
 大塚先輩は、同情を含んだ目で僕を見てきた。

 ……名前が知られていたら、顔が割れるとかいうの、時間の問題なんじゃないのか? 
 ――全然意味無いですから!! 残念っ!!! 砂原雅輝ぃっ、プライバシーの侵害切りぃっ!!!!!―― って感じだった。

「? とにかく、北林さんとお会いできて光栄です! 今日は佐伯さんにも会えたし、すごい素敵な日です!」
「巴里に会ったのか?!」
「はい? 先ほど、捜査一課の方にいらして……それはそれは素敵な方でした。私今まで、あんなに素敵な人に出会ったことありません。私、白瀬夏枝は、佐伯さんを今日から死ぬまで崇拝します! ああ、佐伯さん……」
「あの……白瀬さぁん?」
「ほっとけ……アイツは、もうさっきからずっとああなんだ」
 先輩はすごく嫌そうな顔で、そう言った。
「さっき佐伯が来て、俺にあの毒舌を吐き散らしていきやがった。そしたらよ、傍にいたコイツ、何を思ったかアイツに陶酔しちまったみたいなんだ。それでもう、さっきから『佐伯さんってどんな人なんですか?』とか『何で先輩みたいな人の指導下で、あんな素敵な人が育つんです!?』とか、失礼極まりないことばっか吐きやがる。ああ、胸糞悪いぜ! 北林、お前も佐伯に腹立ってるだろう?」
「は、はい! すごくすごくむかついてます!」
 僕が意気込んで言うと、大塚先輩は大きく頷き、その後とても神妙な顔つきで小声で言った。
「でもな、北林。アイツには関わっちゃあお終いだぜ。アイツの毒舌マシンガントークの餌食になって、何も言い返せないで終わるか、下手なこと口走って周りから白い目で見られて自爆するかの二択なんだ。嫌だろ? しかもよ、容姿端麗、頭脳明晰ときてる。課だけじゃねえ、この警視庁にはアイツの味方が大半だぜ? しかもほとんどがアイツに陶酔しちまってるイカレた連中ばっかだ。俺なんて、何度その壁の前に無念の涙を飲まされたことか……! 
 とにかくよ、悪いことは言わない。お前はアイツに自分から関わるのはよせ。俺は一応、今まで面倒見てきた中で、お前が一番可愛いんだ。分かるだろ? お前に俺と同じ道を辿らせたくないんだ。な? いいな?」
「……」
 先輩があまりにも必死で、僕は何も言えずただ頷いた。先輩はまだ続ける。
「佐伯巴里……思えばアイツが入社してきてから、警視庁は変わった気がするぜ。それまで、化粧っ気の全く無かった女供が、こぞって厚化粧するようになりやがった。しかも、可愛い子が多いって有名な交通課と少年課の女達は、皆狂信的な佐伯信仰者に早変わりだ。まあ、一番の人気者は警視っていうのに変わりはないみたいだけどな……警視庁のトップ2って言ったら、あの二人を挙げる奴が大半なんじゃねえ?」
「……確かに、奴は人目を引くと思いますよ。でも、性格は最悪じゃないですか!? あんな冷酷非道な男がモテるなんて、僕には考えられない!」
「それがな北林……アイツは、何気に男からも人気あるんだ」
「ぎゃっ!? それってホ――」
「だーっ勘違いすんなよ! 違う違う。友人の数が多いってことだ。まあ中には、心の底から奴のことを崇拝してる男もいるみたいだけどな……。しかもな、生意気で手の付けられない奴とか思うかもしれないが、アイツ上からの支持も強いんだ。だって普通に考えてみろよ? 金髪碧眼ネクタイなし。こんな奴を警視庁に置いておくか普通」
「有り得ないです!」
「だろ? でもよ、上はあれを黙認してんだぜ? ったく、何考えてんのか俺にはさっぱり分かんねえよ」
「…………」
 僕は閉口してしまった。
 何てことだ……奴は、そんなにすごい奴だったのか。麻衣が奴を良く思うのも、仕方ないのかもしれない。
「ま、お前が奴に劣ってるなんて、俺は思ってないし、誰も思わねえよ。お前も警視庁人気は、奴に張るくらいあんだろ? しかも、入社時の成績はトップ5の中に入ってたみたいじゃねえか。大丈夫。お前なら、佐伯を越えられると思うぜ」
 大塚先輩は、そう明るく言うと僕の肩をぽんぽんと叩いた。そして、腰を上げると、「じゃあまたな」と言って、未だトリップ中の白瀬さんに気付かれないように、その場から立ち去ろうとした。その時だ――
『緊急事態発生! 現金輸送車が、何者かによって強奪された模様! 巡回中の交通課及び、待機中の捜査一課刑事は、すぐに犯人の逃走ルートを塞ぐようにそれぞれの場所へ急行せよ! 場所は各自モニターで確認すること。以上』
 サイレンの音と共に、放送が流れる。
「なっ……」
 僕は椅子から慌てて立ち上がる。
 先輩も白瀬さんも、放送に聞き入っている。
「まじかよ……ちっ」
 先輩は舌打ちをすると、白瀬さんに向き直る。
「白瀬、お前はすぐに捜査一課に戻って、詳しい話を聞いて来い。俺は先に行って、足の準備をしてくる。五分以内だ! 五分以内で俺のとこまで戻って来い」
「せ、先輩……」
 いつもとは違う先輩に、白瀬さんは戸惑いを隠せないようだ。
「どうした、早く行け!」
 しかし、先輩の渇が飛ぶと、はっとしたように彼女は社食を飛び出した。
 僕は先輩を見つめながら、苦笑する。
「いつもそうやって本気モードを見せてあげればいいのに。彼女きっと、先輩を見直しますよ?」
 当の本人は、面倒くさそうな表情を浮かべる。
「あぁ? んなタルイことすっかよ。俺はな、無駄な労力は使わない主義なんだよ。ほら、何してんだよ。お前も一緒に行くんだろ?」
「ははっ……先輩らしいや。はいっ! 早く向かいましょう!」
 僕と先輩は、そのまま駐車場へと駆け出した。






 階段を滑り降りる途中、先輩が思い出したように言った。
「そうだ、お前。俺に何か隠してるんだよな!? 早く吐けよ。どうして佐伯のことあんなに詳しいんだ? え?」
「ま、まだ覚えてたんですか!? しつこいなぁ……」
「ふん、バドはしつこさの勝負なんだよ! おかげで性格は悪くなる一方だぜ」→(ああ、その通りよね……『作者の心の叫び』)
「……それ自慢できませんよ」
「うっせえ! いいから早く吐けよ! おら! 吐け!」
 そう言って先輩は、僕の背中をばしんと叩いた。普通なら、少し前につんのめる程度の衝撃だったが、今は階段を全速力で駆け下りている上、さっきまで吐きそうだった僕に、これは耐え難いものだった。
「うぷっ……」
 僕は青い顔で、慌てて口元を押さえる。が、それに気付かないのか、先輩は尚も僕の背中を叩き続ける。
「ほら吐いちまえよ。吐けば楽になるぜ?」
「うぅっ……うぐっ……ぐぅぅ……」
 もう、ロケット発射まで、あと十秒というところまで来ている……!
「ほら、言いたくなってきただろ? ほら吐け吐け」
 あと五秒……。
「ん? どうした? 何黙ってるんだよ」
 あと三秒……。
 三、二、一……
「吐け北林!」

――ばしーんっ

 この瞬間、僕は限界を越えた。
「うぷっ……じゃ、じゃあ、お言葉に甘えて……――っ!!!」
 ロケットは発射した。
 ……ダムは氾濫したのだ。
「うわぁっ!?」
 大塚先輩は、持ち前の反射神経と運動神経で、僕から飛び退いた。
「げぇぇぇ! おぇぇぇぇっ! ぺっぺっ!」


 走りながらの逆流は、ある意味壮観だった。
 確かに楽になったことを、僕は実感しながら走り続けた。

 後ろで響く様々な叫び声を、あえて無視しながら……。






 駐車場に着いた僕らは、急いで空いている車を探す……が、一足遅かったのかもうほとんど車は残っていない。息を切らしながら、先輩はごちる。
「ちっ……どいつもこいつも、こういう時だけ行動が早くて腹立つぜ」
「もう車、ありませんね。どうしましょうか」
 そう言って、ふと見つめた先に、何と一台のミニパトがあった。
「せ、先輩! あそこにパトカーがあります! あれ使いましょうよ!」
「ん? おっ! ツイてるぜ! さっそく頂戴するか」
 そう言って、車に近づこうとした時、急にその車が動いたのだ。
「うわっと!」
 慌てて車から離れると、僕らの横で突然止まった。そして、窓から顔を出したのは……
「悪いね。これはボクが借りるよ!」
「巴里!」
「じゃあね」
 そう言うと、パトカーはあっという間に走り出す。
 僕は反射的にそのパトカーを追いかけていた。
「ま、待てよ! 僕たちも乗せろよ!!」
「佐伯! 先輩を少しは敬えって言ってんだろ!? 俺も乗せろよ!」
 大塚先輩も、僕に続いて追ってきていた。
「は? 何であんたらを助けないといけないわけ? どうせ無能なんだから大人しく部屋で待ってた方がいいんじゃない? 変な恥かく前に」
「っかーっ!! 本当にむかつく奴だな!」
 僕は怒り狂ったが、先輩は珍しく冷静だった。しかも何故か、顔がにやついている。そしておもむろに立ち止まると、大声で叫んだ。
「白瀬―っ! 佐伯が早く情報を持って来いだとよ!! 早くここまで来いっ!!」
「なっ!」
 さすがの巴里も、これには驚いたらしく思わず急停止した。それが致命的だった。
「大塚先輩! 北林さん! 待って下さいよーっ!!」
「げっ、本当に出てきやがった」
「は、早い……」
 白瀬さんの登場で、状況は一転しそうだ。
「お、お前はさっきの……」
「佐伯さんっ、私の情報を待っていてくれたんですか!? 私感激です!」
「は? い、いや、あのな……」
「詳しく説明しますんで、ちょっと失礼しますね!」
 そう言って、何事もなかったかのようにするりと後部座席へ乗り込んだ白瀬さんに、僕ら二人はもちろんのこと、巴里も唖然としている。
「どうやら佐伯の弱点は、白瀬のようだな」
 にやりと笑みを浮かべた大塚先輩に、巴里は珍しく悔しそうな表情を浮かべた。
「これから俺に逆らったらどうなるか……分かるよな?」
「……脅しのつもり?」
「さあな? でも、お前にとって、色々都合の悪いことが増えるかもしれないよな。それでも別にいいなら、俺はどうでもいーけどな」
「……早く乗りなよ」
「ふん」
 先輩はそう悪態つきながら、白瀬さんを奥へ追いやり、自分も車へ乗り込んだのである。
「あっ、僕も!」
 僕も慌てて乗り込んだ……ハズだった。しかし、僕が片足を掛けたところで、車が急発進したのだ。
「ちょっ……待って! ぎょぇぇぇぇぇっ!?」
 車の勢いの反動で、僕は後方へ大きく吹っ飛んだ。
 転がりながら見えたのは、巴里の馬鹿にしたような顔だった。僕の怒りは頂点を越えた。
「うおぉい! 僕も乗せろよ!!」
「ばいばい」

 ひらひらと手を振る巴里に、全身の血管が千切れそうになるのをひたすら堪えつつ、車が見えなくなると僕は力の限り叫んだ。
「くっそぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!!」

 ボクの叫び声だけが、静かな駐車場に響く。それは余計に空しさと悔しさを増徴させる。
 しかし、ここでこのままこうしていても何も始まらないし、何も解決はしないのだ。

――悩むより、動け。考えるより、体を使え。

 毎日のように大塚先輩に聞かされていた言葉。あの時は、耳にタコと適当に流して聞いていたが、今はあの言葉がとてもありがたい。
 前向きな姿勢と心……この大切さが今身に染みて分かるから。
「大塚先輩……僕、今初めて貴方に感謝してるかもしれないです」
 そう僕は呟くと、おもむろに警視庁の入り口へと向かった。
 何も車だけが移動手段ではないのだ。僕が学生時代に愛用したアレがあるじゃないか。



「お疲れ様です!」
 入り口に着くと、いかにも新入りといった初々しい印象の警官が、恭しく敬礼をした。何だか、ちょっと前までの自分を見ているようで、少し恥ずかしい。
 僕は挨拶もそこそこに、笑みを浮かべて言った。


「ソレ、しばらくお借りできます?」




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第6章です。タイトルは「ヤケ食い」ですwいやー、義高の胃袋はまさに『ブラックホール』ですね……。よさこい食堂……アーメン。
今回は、大塚と義高の掛け合いがメインにしてみましたが、中々面白い二人だったなぁーと。夏枝の暴走っぷりが書いてても面白いです。ハイ。
さてさて、彼が学生時代に愛用したアレとは一体……。