最終章<義高篇>〜夢の中の理想郷〜
あれから一年が経った。
僕は何も変わりなく過ごしている。
唯一の変化といえば、僕はあの時の実績を高く評価され、今では警部補に昇進した事くらいだ。
「ちきしょ――! 俺はお前を上司だなんて思わないからな!」
と、大塚先輩はいつも悔しそうに言う。
大塚先輩は、仕事に対してやる気が見えない、という理由から昇進できずにいる。実力はあるのにもったいないなー、と僕はいつも思っているのだが。
「北林、この書類まとめといてくれ」
「分かりました、警視」
砂原警視といえば、彼もあの後警視正に昇進して、人気は更にアップしたようだ。
「ふう……」
僕は書類の溜まったデスクを眺め、深く溜め息を吐く。
すると、見たことも無い本が僕の目に留まった。
「あれ? 本なんて置いてないんだけど……」
そう呟き手に取った本の題名を見て、僕は思わず机の上のお茶を溢した。
「なっ、なっ、何でだ――!?」
僕の叫びは、警視庁中に響き渡った。
「まさか先輩が小説書いてたなんて知りませんでしたよー」
「まあ本業はフリーだけどね。どうしても書きたくてさ」
ここは都内某喫茶店。
二人の男女が、熱心に仕事の打ち合わせをしている。
「でもまさか、お前が記者になってるとも思わなかったぞ」
「どっちもどっちですね」
そう言って笑う女性の名は山瀬愛。彼女もまた、バド部の一員である。同窓会には取材のため出席できなかったが、実は彼女、義高に会っていたのだ。
そして、彼女が先輩と呼んでいる人物は言うまでも無いが――小倉 諭である。
「それにしても、何で小説のタイトルが『桜山荘殺人事件』なんですか? 桜山荘に行った事あるんですか?」
「まあな」
「へ〜。でもまあ、結果としてもこれがベストセラーになって、先輩は作家としてデビューできたわけなんですから」
「そうだな。あいつらには感謝しないとな」
「へっ? 何か言いました?」
「いや……」
そう言った小倉は、静かに笑みを零すのだった。
「な、何だよこれ……」
僕は本のタイトルを凝視した。
――桜山荘殺人事件――
「これって……だって……」
僕は書類をまとめるのも忘れ、その本を読み始めた。
「げ! やっぱこの主人公僕と麻衣だ……」
しかし作者の配慮からなのか、僕は義孝=A麻衣は舞≠ノ変えてあったが。
「誰がこれを書いたんだ!? でも悔しいけどまじ面白い!!」
僕はもう、作者のことも仕事も忘れ、本に集中していた。
「か――! まじ面白れえ! 最高だ!」
僕は時間が経つのも忘れ、気付いたときは朝だった。どうやら警視庁で徹夜してしまったみたいだ。
だがおかげで、本は残すところ数ページ。
事件解決後のエピローグだけだ。
「とりあえずここまでにしておくか」
僕がそう呟き、伸びをした時だった。
突然、電話が鳴ったのだ。
「こんな早朝に電話……?」
僕はその瞬間、一年前のあの悪夢を思い出した。
確かあの時も、僕は一人だった……。
でも僕はもう新人じゃない。
違うんだ――
僕はそう自分に言い聞かせると、電話に出た。
「もしもし、捜査一課です」
だが僕は、次の言葉に受話器を落としそうになった。
「サクラ……サクラサンソウデ……ヒトガ……」
そんな! またあの悪夢が!?
僕は絶望を感じながらも、必死に会話を続けようとした。
「もしもし! あなたは!? どうして――」
「――なーんてね」
僕は背後に気配を感じ振り返る。
――神様……僕は夢でも見ているんでしょうか……
「一番乗りしようと思ったのに……先客がいたのね。久しぶり! あ、おはようが先か」
僕の目の前には、あの時以来会うこともなかった麻衣がいた。
「麻衣……どうしてここに……」
「まだ寝ぼけてるの?」
「へ?」
僕は麻衣の言葉の意味が分からず、ぽかんとした。
麻衣は大げさに肩を竦めて苦笑する。
「随分なご挨拶ね。それが今日から捜査一課に配属になる者への態度?」
「え!?」
「あれ、聞いてなかった? 私、今日から捜査一課に異動になったのよ」
「嘘っ!?――うわぁっ!!」
「義高っ!?」
――ガシャーーンッ
僕はあまりにもびっくりした為、椅子ごと後に倒れた。
「ちょっと、大丈夫!?」
「あいたたた……」
麻衣が起きるのを手伝ってくれる。
僕は痛む頭を擦りながら言った。
「……僕、そんな話一言も聞いてなかったよ」
「そうなの? 砂原警視が伝えておいてくれる事になってたんだけど……」
「砂原警視が?……あ!! あの人、また僕らをからかったんだ! ……そうそう、もうあの人は警視じゃないよ。警視正に昇進したんだ」
「あ、そう言えばそんな話も……――って、またやられたのね!? 全くあの人はいっつもこうなんだから!」
「本当だよ! 僕なんていっつもめんどくさい仕事ばっか押し付けられてるんだよ!? 頭にくるよ!」
「ぷっ……」
「あはははっ」
二人で砂原警視(正は略)の愚痴をこぼしながら、僕らはどちらともなく笑い出した。
捜査一課に朝日が差し込む。
暖かな春の光が僕らを照らす。
外では、桜の花びらが風に乗って舞い踊る。
僕は自分がまだ、夢を見ているような気分だった。
麻衣が……捜査一課に?
そんな事が……起こるのだろうか?
僕がぼうっとそんな事を考えていると、麻衣は服装を正し、僕に向かって敬礼をした。
「義高……いえ、北林警部補。これからよろしくお願いしますね」
麻衣はそう言って礼をし、右手を差し出した。
――僕が昇進した事、知ってたのか……
僕はその手を強く握ると、笑顔で言った。
「こちらこそ!」
僕の過ごした一年と、君が過ごした一年。
お互いに色々なことがあったに違いない。
そしてお互い、あの時よりもずっと成長したに違いない。
僕は夢の中にいるような感覚のまま、彼女に問う。
「麻衣……本当に…本当に……君なのか?」
「えぇ? あはははっ、何言ってるの? 私は私だよ」
麻衣は笑いながら、不思議そうな瞳を僕に向ける。この瞳には、本当に僕が映っているのだろうか。
「そう、だよな……これって、夢じゃないよね?」
この問いに、麻衣は悪戯っぽく笑う。
「……さあ、ふふっ……どうかな。白昼夢ってやつかもよ?」
――白昼夢……か。
でも、僕は……それでもいいんだ。
君と再会できた。それだけで、僕は……。
「義高ー、いつまでも惚けてないで、顔でも洗ってきたら? そんな眠そうな顔じゃあ、また警視にからかわれちゃうよ」
「ああ……そうする」
「あははっ……何か、久しぶりに会ったって気がしないね」
そう言って楽しそうに笑う麻衣につられて、僕も微笑んだ。
何だか、毎日こんなやり取りをしていたような気になる。一年ぶりなんて、嘘のようだった。
――そんな時突然、麻衣が窓に駆け寄った。
開かれた窓から、春の香りを感じる。
「義高、見て見て! 桜がすっごい綺麗だよ!」
麻衣の言葉に誘われたかのように、風に乗った花びらが室内に舞い込んだ。
その瞬間、僕は一年前を思い出した。
麻衣と二人で見上げた桜。
僕らが出会って別れた場所。
桜が二人を惹き合わせた。
麻衣はとても嬉しそうに、風になびく髪をかき上げた。
彼女は何も変わってない。芯の強い探偵のままだ。
僕は……君に負けないくらい、強くなれたのだろうか?
――いや、今はそんなこと、どうでもいいか……
僕は軽く頭を振る。
夢なのかもしれない。
僕は、夢の世界で彼女を見ているのかもしれない。
それでもいい。夢でも幻でもいい。これが僕の願い。
僕にとっての理想郷が、今ここにある。それでいい。
たとえこの理想郷が、儚い夢の中にだけ存在するものだとしても……僕は……。
――これが、決して醒めない夢ならいいのに。
僕は、笑みを浮かべながら頷いた。それを見た麻衣も、僕に微笑み返す。
――桜の季節。
出会いと別れの季節。
でも、僕らにとってはいつだって――始まりの季節。
そうだ……物語は今、始まったばかりなんだ。
僕は、目を閉じて呟いた。
「ああ――……本当に、綺麗だ……」
『探偵乱舞』〜桜山荘殺人事件〜――完――