最終章<探偵篇>「君トモラトリアム」
屋上から戻ってくると、廊下の向こうに義高の姿が見えた。
……思えば彼と、きちんと話していなかった。
呼びかけようとした時、彼が誰かに話しかけられているのに気付いた。相手はどうやら、背の丸まったおばあちゃんのようだ。
「落し物を取りに来たんだけどねぇ、どこへ行けばいいのかねぇ?」
「おばあちゃん、ここは刑事課ですよ。落し物はもっと下」
「はい? 何だって?」
「落し物はここじゃないんです。入り口で対応するからね」
「はぁ? 何だって?」
「だからねぇ……」
思わず笑ってしまうような光景だが、本人はそれどころじゃないだろう。困った顔で辺りを見回した義高は、そのままため息をつくとおばあちゃんに手を差し出した。
「ほら、おばあちゃん。そこまで一緒に行きましょう」
「いたたた、腰が痛い……。さっき階段なんて使っちまったせいで、あいたたた……」
「え! 大丈夫?」
「もう痛くて歩けんよ……いたたた」
「……よし、おばあちゃん。僕の背中に乗って」
屈んだ義高に、おばあちゃんはよろよろとしがみつく。
「すまないねぇ……」
「いいよこれくらい。さ、しっかり掴まってね」
まるで重みなど感じていないかのように、軽々とした足取りで歩いていく義高。何となく気になった私は、二人の後を追うことにした。
「よっこらしょ…と。おばあちゃん、ここが受付だからね」
「ありがとねぇ。若いのに親切な子もいるもんだね」
「どういたしまして」
「しかもあんた、よく見ると中々の色男だねぇ。さぞ沢山の女を泣かせてきたんだろうねぇ」
「な、何言ってんの。そんな、全然だよ」
「あたしが後60歳若かったらねぇ、あんたを誘惑しにかかるところだったけどねぇ」
「あははは、それは光栄だ。ほらほら、受付の子が呼んでるよ」
「おお、そうだったそうだった。じゃあ、本当にありがとうね」
受付に呼ばれたおばあちゃんを、遠くから見守る義高。きっと、おばあちゃんが警視庁から出るまで、ずっと見守り続けるに違いない。
何だか、さっきまでの胸の隙間が埋まっていくよう。
ぽっかり空いていた穴が、満たされていくような気がする。
「……そっか……」
呟けば、その思いは確信に変わる。
義高とパートナーでいたいと思った本当の理由。
依存とか、頼りがいがあるとかないとか、成長出来るとか……そんなのはただの言い訳。
――――私はただ、この温かい優しさから離れたくなかったんだ……。
「……?」
ドキドキなんていう刺激ではないし、キュンなんていうときめきでもない。ましてや、胸がギューッと締め付けられるような気持ちなんて、ほんの僅かだって感じない。
感じないのに……
トクントクンと穏やかに鳴る、この気持ちはなんなんだろう……?
そんな時、ふと彼がこちらを振り返った。
穏やかな、優しい瞳が瞬く。
私は口パクとジェスチャーで、おばあちゃんを見ててあげてと伝えた。彼は、苦笑したように頷くとまた視線をおばあちゃんに戻した。
巴里に言われた言葉が、ふと蘇る。
――――大事なものは……それがどんな形になっても、ずっと傍に置いておきたいんだよ
……私今なら、この気持ちよく分かる。
どんな形でもいいから、相手と繋がっていたい。
絶対に失いたくない、大切な人だから『言葉の鎖』をかけて守りたい。
――――恋情ではなく、友情に
――――恋人ではなく、友人に
それは全て、奪われないため。失くさないための保険なんだ……。
もちろん、ずっとこのままでいいとは思わない。
私たちはいつか、愛する誰かと、生涯を共にすることを決めるだろう。その時に、保険なんて言葉は使えない。
でも……今はまだ、このままでいたい。
ずるいのも、そんな都合の良いことが、長く続けられないことも分かってる。
だから、今だけでいいから。
せめて、鎖が切れてしまうその時までは……
「麻衣っ」
駆け寄ってきた彼からは、優しい香りがする。
春風にも似た、穏やかで温かい香り。外はすっかり寒くなったというのに、彼の周りだけ春の日のよう……っていうのは、ちょっと言いすぎかもしれないけど。
ゆっくりと手を差し出せば、いつかのやり取りがきっと帰ってくる。
だってほら、彼の手もゆっくりと差し出されるのが分かる。
自ら散らしてしまった私の恋花。
それが再び咲く日はきっとそう遠くない。
その花が、誰を想い誰のために咲くのかは分からないけれど……
「……これからも、またよろしくね?」
優しい笑顔と共に重ねられたその手の温もりを、私はいつまでも忘れたくないと思った。
――完――