とある街の片隅に、ひっそりと佇む廃墟ビル。
 ――――御影探偵事務所。
 ここの探偵事務所が扱うのは、世に蔓延るあらゆる謎。
 俗に言う、都市伝説と呼ばれる類もの。

 そして今日もまた。
 袋小路に迷い込んだ人間が、彼に助けを求めてやってくる。

 噂という謎を、手土産に……。



ファイル002 ベッドの下の男



 中に入った瞬間、不思議な香りに包まれる。お香……なのかな。
 立ち尽くした私に、目の前の青年は微笑んだ。
 黒く、艶めいた髪。長めの前髪から覗く、紅い瞳。……綺麗、としか言いようが無い。
「ようこそ、御影探偵事務所へ」
 突然言われ、思わずどもる。
「こっ、こんにちは」
「さあ、どうぞ。こっちへ」
「はあ」
 促されるままにソファーに座るも、どうも落ち着かない。せわしなく視線を漂わせる私に、彼は苦笑を漏らした。
「ふふっ……緊張してるのか?」
「えっ……いや、あの……」
 あたふたしていると、「どうぞ」と目の前にお茶が差し出された。
「あ、ど、どうも……」
「粗茶ですが」
 人形のように整った顔の少女が、会釈をして去ると、彼はデスクの上に頬杖を付いた。
「さあ、まずはお茶をどうぞ。話はそれからだ」
「あ、はい……」
 カップに口を付ける。熱過ぎず、温過ぎず、まさに適温。とても美味しい。
「うちの所員の淹れるお茶は美味いと定評があるんだが、どうかな?」
「美味しいです、とっても」
「それは良かった」
 ふっ、と笑みを零す青年。
歳は私とさほど変わらないように見える。
 ぼぅっと見つめていると、彼の紅い瞳がうっすらと細められる。その仕草はまるで「コレイジョウミツメテハイケナイヨ」と私に忠告しているようで……ぱっと視線を逸らす。何、今の感覚は……。
 彼はくすり、と笑う。
「さて、そろそろいいかな? アンタがここに来た理由を聞かせてもらっても」
 はっとして、コクリ、と頷く。
「私は、藤倉雨音(ふじくら あまね)と言います。今は学生で……この近くの大学の三年です」
 彼はペンを置くと、首を傾けて微笑んだ。
「所長の御影紫季だ。雨音、よろしく」
 名前で呼ばれても嫌な気がしないのは、この人の目に見えない不思議なオーラのせいだろうか。
全てを委ねたくなるような、そんな感覚に陥る。

 この人なら、私を正しい世界に連れ戻してくれるだろう。
 きっと、そうだ。

「紫季さん……私を、助けてくれますか?」
 微笑んだ彼に、私は事の全てを語り出した……。






 最近、私の周りがおかしい。
 何かが、変わっている。
 例えば、部屋の空気、物の位置。

「それって、ストーカーじゃないの?」
「そうなのかな……」
「絶対そうだよ! 雨音、アンタ一人暮らしだし、格好のターゲットなんじゃん!?」

 友人に相談した結果、ストーカーという結論に至った。
 それからは、毎晩色んな子たちが泊まりに来てくれたり、遊びに来てくれた。
 でも、そんな時に限って、何も異様な空気は感じられなかった。

「うーん……こう言っちゃあれだけど……雨音の思い込みじゃないのかな?」

 こんな台詞が出ることだって、仕方なかった。
 友達は皆、私の被害妄想だと言った。

 でも、私はどうしても納得いかなかった。
 妄想なはず、あるわけない。
 現に、私以外の誰かの気配を、常に傍で感じるのだから。

「雨音、大丈夫か? あんまり思い詰めるなよ」
「雪也……」
 そんな中で、ただ一人。私の話を信じてくれたのは、恋人の雪也だった。
 半ば友達からも白い目で見られていた私の、ただ一人の味方。
「俺は雨音を信じるよ」
 そう言ってくれた彼だけが、私の心の拠り所。



 ある日、唐突に事件は起きた。
 本当に“居た”のだ。
 私以外の誰かが、私の部屋に!

 その日は久々に、高校時代の友人たちと飲んでいて、終電を逃した友人二人、美香と智美を自宅に呼んだ。そして夜通し語り明かそう、ということになったのだ。
 異変が起きたのは、丁度夜も更けた頃。
 ベッドの上で転がる私に、カーペットの上で毛布に包まった智美が言ったのだ。「アイスが食べたい!」と。
 
「アイスなら冷凍庫にあるよ?」
「嫌なの、アレ。セブンスイレブンで売ってるアレがいいー!」
「何子供みたいなワガママ言ってんのよ……」


 でも、何度言っても智美は聞かなくて……。じゃあ、買ってくれば? という結論になった。でも、智美は納得しない。あくまでも、三人一緒じゃなきゃ嫌だと言って。

「あーもー! 分かったよ、行けばいいんでしょ! 行けば」
「うぅ……眠いよ……」
「よっしゃ! じゃあ、とっとと行こう!!」


 ぐったりとした私たちの腕を、智美はがっしりと掴んで、ぐいぐい玄関へ連れていく。
 玄関から出る時も、しきりに「早くして!」と私たちを急かして、そんなにアイスが食べたいの? と呆れてしまうくらいだった。
 でも、玄関から出た彼女が向かったのは、コンビニの方向ではなかった。

「ちょっと知美!? どっちに行くのよ!」
「いいから走って美香!! 雨音も、早く!!」
「えっ?」


 智美の剣幕には勝てず、戸惑いながらも夜道を疾走する私たち。
 見えてきたのは……交番だった。

「交番って……アンタ、一体……」
 美香の言葉に、智美は目に涙を溜めて半ば叫ぶように言ったのだ。

「いたのっ……!! 雨音のベッドの下に、包丁持った男が!!!!!」
「!?」


 でも、警察に調べてもらっても、何も痕跡は見つからなかった。そして、酔っ払いの世迷いごとと片付けられてしまったのだ。智美は「絶対にいたの! 嘘じゃない!!」と言い張ったけど、美香は「いい加減にしてよね」とでも言いたげに、溜め息をこぼしていた。

「ねえ雨音……私は本当に見たんだよ!? 雨音、あの部屋に戻らない方がいいよ!」
「智美! アンタ、まだそんなこと言ってんの!? 雨音、智美の馬鹿はほっときなよ。アンタまで、おかしくなるよ」
「美香は信じてないの!? 雨音、私、嘘なんてついてない!!」
「智美!! いい加減にしてよ!!」
「……」


 智美と美香が口論している最中、私は心の中が重くなっていくのを感じていた。
 やっぱり……居たのだ。私以外の誰かが、あの部屋に。
 智美の言うとおりだと思う。私は、あれを事実だと疑っていない。
 智美は間違いなく見たのだ。私の部屋に潜む、何者かを……。





「……依頼は、これです。この事件の真相を、是非解明してほしいんです。じゃないと、毎日が不安で不安で……私、おかしくなりそうで……」

 毎日が、不安でいっぱいだ。
 雪也がいてくれないと、正気すら保っていられないほど、私は病んでいた。
 大学も休みがちで、まともに食事もできない。
 家から出るのが怖い(誰かが私の部屋には入ってきてしまう)

「ふーん……大体の事情は分かった」
 頬杖を付いたままの状態で、紫季さんはペンを走らせる。
「アンタが体験したのは、都市伝説の中の『ベッドの下の男』っていう話だ。知ってるか?」
「いえ……そういうのには疎くて………すみません」
 謝る私に、彼は首を振った。漆黒の髪が揺れる。
「謝る必要は無い。それで……アンタは、この事件の真相を解明したいのか?」
「はい……」
「まずは3日後。もう一度、ここにおいで。その時までに、今回の件の客観的立場からの見解、及び事実性、真実性、事件性などをまとめておくから」
「はい……」
「じゃあ今日はこれで終わりだ。気を付けて帰れよ。ほら、香月。駅まで送っていけ」
 紫季さんの呼び掛けに返事をしたのは、私と同い年くらいの男の子だった。香月……と呼ばれていた。
「もうお話は終わったんですか?」
「ああ。夜道は危険だからな。しっかりとボディーガードするように」
「分かってますって。じゃあ、俺が駅まで送るから」
「あ、はい……」

 香月君……に連れられて、私は来た道を歩いていた。
「藤倉雨音さん、だよね?」
「え、あ、はい」
「もしかして……大学、同じかも」
「え?」
「俺、聖桜大学三年。君、英文科じゃない?」
「そ、そうですけど……」
 まさか同じ大学、しかも同じ学年だったとは。
 彼は「やっぱり」と苦笑した。
「ごめん、別に俺ストーカーとかじゃないから……って、今、この話は禁句だったよな……」
「いや、別に……」
「悪い……。いや、俺の友達が、君の大ファンらしくてね。ちょっと、気になってたっていうか」
「ファン? 私の?」
「あれ? 君、結構人気あるんだよ。ファンクラブだってあるし……知らなかった?」
 意外そうな顔をする彼に、私は鳩が豆鉄砲でも喰らった顔をしていたに違いない。
 私にファンクラブなんて……信じられない。
「そんな君をこうやって送れるなんて、俺はかなり役得ってわけ」
「そんなこと……私は……」
「君くらいの淑やかさが、美咲にもあればなぁ……」
「美咲?」
「いやいや、こっちの話」
「?」

 彼からは、さっきの紫季さんや綺麗な少女から漂っていたオーラは感じられない。
 でも、私とは違う気がする。強いて言うなら、ちょうど中間地点にいるような、そんな雰囲気を醸し出している。

「駅、着いたけど……」
「!」
 ぼんやりと、色々なことを考えていたら、いつの間にか駅に着いていたらしい。
 私は慌てて御礼を言った。
「あ、ありがとう。えっと……」
「俺は橘香月。また、学校でね。藤倉さん」
「う、うん……」
 軽く手を振って、彼はまたあの道を戻っていった。

 橘香月君……。
 紫季さんとはまた違う、不思議な人……。



 帰宅すると、雪也が部屋の前で待っていてくれた。
「雪也っ……」
「雨音……どこ行ってたんだ? 遅いから、心配で……」
「ちょっと……一人で、考え事してて……」
「あんまり一人でいるのは良くないよ……」
「ごめんなさい……」

 彼には、御影探偵事務所のことは話さなかった。言えなかった。
 私は、彼の前で不安がっちゃいけない。そういう不安を払拭しようと、彼は私に尽くしてくれているのだから。
 もし私が探偵事務所に行ったことを彼が知ったら、彼は傷付く。自分が弱いせいだ、頼りないせいだと自分を責める。
 そんなのは耐えられない。優しい彼を傷付けたくない。

「ねえ雪也、私、雪也がいてくれたらそれでいいの。雪也だけは私の味方だもの。貴方がいれば、他には何もいらないわ」
「雨音……俺は、ずっとお前と一緒にいるよ。だから安心しろよ。お前には、俺がいるから……」
「うん……」

 雪也、ごめんね。
 こうやって雪也と抱き合っていても、私の心の中の不安は消えない。
 雪也が守ってくれてるんだって思っても、どうしても胸に巣食う不安がなくならないの。
 
 どうして?
 この問いかけに、あの人は……御影紫季さんは、答えてくれるだろうか。


 次の日、私は久々に学校に行った。
 友人たちに囲まれても、前のように笑えていたかどうかは分からなかった。雪也が傍で、私を見守っていてくれていてもそれは同じ。気分が、明るくならない。 これじゃあ雪也にも友人にも悪いと思って、気分転換がてらに購買に向かう。一緒に行くと言う雪也も断って。何だか、一人になりたい気分だった。
 だから購買で、意外な人物と出くわしても、あまり愛想の良い挨拶が咄嗟に浮かばなかった。

「あ、藤倉さん」
「橘君……」
 購買で偶然出くわしたのは、昨日会った橘香月だった。両手にパンを抱えている。
「昨日は何か、変わったことはなかった?」
「う、うん、特には」
「そっか。あ、三日後ちゃんとおいでね。今、資料集めに奔走してるからさ」
「ありがとう。橘君は、あそこでバイトをしているの?」
「うーん……まあ、それに近い形かな。藤倉さんは、昼飯買いに来たの?」
「うーん……まあ、それに近い形かな」
「……」
「……ぷっ」
「あははは……っ」
 お互いが、曖昧な笑みを浮かべて同じ言葉を言う。それがおかしくて、思わず、顔を見合わせて吹き出してしまった。
 しばらく笑い合って、ふと橘君が言う。
「うん。やっぱり、藤倉さんは笑ってた方がいいよ」
「え……」
「美人には、笑顔が似合うってこと。じゃあ、また事務所で」
「あ……」

 彼を見送った私は、少し心が軽くなっているのを感じた。
 久々に笑った気がする。
 ……もっと話したかったな。そんなことを考えるほどに、私は彼に興味を抱いていた。



 それから二日後。
 私は再度、御影探偵事務所を訪れていた。
 目の前には、紫季さん。そしてその横には、あの綺麗な少女……双子なのだろうか、と橘君が何か作業をしている。
 椅子に座るなり、書類が渡される。紫季さんを見上げると、軽く微笑が返ってきた。
「まずは、軽くその書類に目を通してもらえる?」
「はい」
 一通り目を通した私に、紫季さんは頬杖を付きながら言った。
「じゃあ、俺たちの調査結果及び、噂の本質について説明しよう」
 彼の瞳が、妖しく揺れる。
「今回アンタが体験したのは、前にも言ったとおり『ベッドの下の男』っていう有名な都市伝説だ。この噂の内容は、アンタ自身が体験済みだから省略するが、要するにベッドの下に凶器を持った男が潜んでて、それに気付いた奴の機転で仲間が助かるっていうストーリーだ」
「コンビニに行きたいって言った部分ですか……?」
「そう。ここでもし、アンタの友達が真実をその場で告げていたら……分かるよな? アンタは多分、今ここにはいないだろうよ」
「っ……」
 ゾッとした。
 彼の言葉が、リアルな響きを持って私に伝わる。今更ながらに、智美への感謝の気持ちがあふれてくる。
「でも、残念ながら世間一般ではこの手の話は『妄想』と言われることがほとんどだ。アンタの場合も、大方、そう扱われたんだろ?」
「はい……警察にも、そう言われました」
「だろうな。実は、こういう妄想を、人間は抱きやすいっていうデータが精神医学の世界では出ていてね。実際に、この『自分以外の誰かが部屋に潜んでる』って思いに悩まされる人間は多いそうだ」
「そう、なんですか……!?」
「一種の精神病と考えられているらしい。でも、本人たちはいたって本気で真面目に言っている。彼らは普通の人間だ。頭がおかしいわけじゃあない。でも、自分以外の何者かの存在に、いつも怯えて暮らしているのさ」
「私と同じですね……」
 私は、病気なんだろうか。精神の病に侵されているのだろうか。
 そんな私の思いに気付いたのか、彼が軽く指を振る。
「雨音、別に俺はアンタを精神病だなんて思ってない。俺が扱うのは、こういった事件ばかりなもんでね。これは、一つの見解だと思って聞いてほしい」
「は、はい……」
「よし、いい子だ」
 いい子だ、なんて。何だか、照れる。
 まるで、小さい子に言い聞かせるような口調でそう告げた紫季さん。
 紫季さんと私は、そう年齢が離れていないように見えるのに……。いや、もしかしたらこう見えて、案外すごい上なのかもしれない。
「この現象には、人間の潜在意識が関係していると考えられている。人間はね、無意識の中で『隙間』を特別視しているんだよ」
「隙間……ですか?」
「そう、隙間。天井とか、扉とか、壁と物の間とか、何でもいい。とにかく、隙間っていう空間に特別性を見出してるんだ」
 紫季さんは、フッと笑みを零して、パチンと指を鳴らす。すると、不思議なことに今まで閉まっていたはずの入り口がわずかに開いた。
「あの、これは……」
「……風で開いたのかね? まあいい。璃緒、お茶を」
「はい、紫季様」
「……」
 視界に入る、入り口の扉。
 さっきまでは何とも思わなかったのに……何故か、少しだけ開いている隙間が気になる。
 何だか……怖い。
「フフッ……気になるだろ?」
「え、あ……」
「隙間が出来た瞬間から、アンタの目線はずっとあの隙間に向けられてる」
 お茶を飲みながら、彼はまた「パチンッ」と指を鳴らした。すると、ばたんと音を立てて、扉が閉まった。
「おや……また風で閉まったみたいだ」
「……」
 もはや、呆気に取られたとしか言いようの無い私を、紫季さんは飄々とした態度で見下ろしている。
 ……私、遊ばれてるのかしら……。
「とまあ、隙間に対する人間の意識、少しは分かっただろ。隙間ってことは、ベッドの下の隙間も同じだ。アンタの友達も元々、ベッドの下に対して『畏怖』の念を持ってた可能性が高いってわけさ」
「じゃあ、あの時見たその…凶器を持った男も……」
「幻影ってところかね」

 紫季さんの言葉に、安堵したような、落胆したような、そんな微妙な気持ちが沸き起こる。
 いや、安心したのは確か。私のような思いに悩まされている人々が沢山いる、ということが知れただけでも幾分か気持ちが軽くなった。
 でも、本当にそれだけだったのだろうか。心から納得できない思いが、私を落胆させている。

「……浮かない顔だな、雨音」
「いや、それは……」
「真実は、別のところにあるかもしれない。そう思うか?」
「……」

 別のところに……あるのだろうか。
 私の思い過ごしでもなくて、本当に家の中に誰かが潜んでいるの?
 分からない……

「この先に進むか進まないか。それを決めるのは、雨音。アンタ次第だ」
「え……」
 いつの間にか紫季さんが、私の目の前に立っていた。
 紅い瞳が、私を映している。
「……雨音、真相を解明することは、アンタにとっていいことだけとは限らないよ」
「……」
「真実は時に、残酷で醜悪なものだ。一生心に巣食うような、魔手を広げている」

 そう私に告げる彼の瞳は、真剣そのものだった。
 表情から笑みは消え、強いて言えば世の中のあらゆる出来事を見てきたような達観した表情をしていた。

 私は、真実を知りたいのだろうか。
 いや、知りたくないわけはない。そのために、この探偵事務所に来たのだから。
 じゃあ何で頷けないのだろう。

 ……そうか。私……怖いんだ……。
 だから私、今震えているんだ。口を上手く、開くことが出来ないんだ……。

「そうさ、雨音。真実を知ることは、怖いことだ。アンタが躊躇するのも無理はない。そのままこれを、なかったことにするのもいいだろう。知りすぎることは、己の身を滅ぼしかねない」
「私……私は……」
 紫季さんはまるで、私の心を読んだかのように言う。

 無かったことにする……そんなことが出来るの?

「出来るさ。お前がそれを望むならね……」

 私が望めば、無かったことに出来る……、それはとても魅力的な言葉で。思わず、その道へ手を伸ばしそうになった……けれど。

 彼と……橘君と目が合った。
 彼の目は「本当にそれでいいの?」と、私に語りかける。

 
本当にそれでいいの……?

「今日はもう帰れ」
「え……」
「アンタが真相を解明したいと思ったらなら……もう一度ここに来るといい」
「紫季さん…私……」
「真実は、時が経てば薄れてくる。それを忘れないことだ」
「……」

 紫季さんはそれだけ告げると、机に戻って書類を見始めた。
 いつの間にか、双子の少女もいなくなっている。橘君は、何か言いたげな顔でこっちを見ている。
 私は立ち上がり、無言のまま頭を下げ、事務所から出た。

「藤倉さん!」
 パタパタという足音に振り返ると、橘君がいた。肩で息をしている。私を追いかけてきたのだろうか。
「橘君……」
「その……本当はこういうこと言うの、規約違反なんだけど……」
「……?」
 橘君が私を見る。
 その瞳は、紫季さんのそれとは違うけど……でも、やっぱり不思議な光を帯びている。
 ふと目に入った、彼のこめかみの痣。怪我でもしたのだろうか?

 ……ドクンッと胸が鳴った。何故…か、胸がざわつく。

「君は……真実を知るべきだと思う」
「……」
「選ぶのは藤倉さん……君の自由だけど、でも……」
 彼はしばらく逡巡した後、ためらいがちに私に言った。
「このまま、真実をうやむやにしたら……君はきっと、後悔する」
「橘君は……真実を知っているのね……」
「それは……」
 しまった、というような表情で俯く彼。
 きっと彼は、私の知らない真実を知っているのだろう。そしてそれは、私が知るべきことなのだ。
「……ありがとう。でも、もう少し考えさせて」
「藤倉さん……」
「また、学校でね?」
「……」

 彼の言葉は、私を後押ししてくれるものなのか。それとも引き止めるものなのか。今の私には、どうにも判断がつかなかった。
 でも、橘君の揺れる瞳が焼きついて離れない。
 彼の言葉や雰囲気は、私の心を軽くしてくれる。不思議な雰囲気に……私は惹かれている。



「あ、雪也」
「雨音、今日も遅かったな」
「ごめん……ちょっと、散歩をしてて」
 マンションの下には、雪也がいた。手には缶コーヒー。私の帰りを、待っていたのだろう。
「……いつから待ってたの? 連絡くれれば良かったのに……」
「ちょっと前だよ。たまたま近くに用事があったから……お前は気にするなよ」
「雪也……」
 そう言って笑った彼の手はとても冷たかった。どれだけ長い間、私を待っていたというのか。
 彼の優しさに、思わず涙ぐむ。そうしたら「馬鹿、何泣いてんだよ」と頭を小突かれた。余計に涙が出てしまう。
「雨音、あんま無理するなよ? 俺はお前が元気に笑っていてくれればそれでいいんだから」
 優しく抱きしめられて……私は静かに目を閉じる。

 ……こんなに優しい雪也。私の大切な恋人。
 彼にこれ以上心配をかけたくない。彼を失いたくない。
 そのためには……私は真実を知るべきだ。全てが分かれば、この不安も全部消える。

 でも何故だろう。
 胸の鼓動が、早くなっていく……。






「その結果、どんな事実が浮き彫りにされても……後悔しないか?」
「はい……」

 きっと、何も知らないまま生き続けたら……そっちの方が後悔する。
 橘君は、複雑そうな顔で私を見ていた。
 その瞳が揺れる理由を、私は知らない。知ることが出来ない。
 でも、真実を知ったら……彼の瞳が揺れる理由に近づけるような気がした。

 そんな私に、紫季さんの紅い瞳が細められた。
「雨音、真実を知る方法は――――……」

……とても、楽しそうに。





「ただいまー……って、誰もいるわけないのにね……」
 家に帰り、夕食の支度をする。
 野菜のスープにビスケット。質素で簡単、一人暮らしメニューだ。
 食べ終わって、シャワーを浴びる。髪を乾かして、テレビを眺める。毎日、この繰り返し。

 でも、いつからか。この部屋に、私以外の誰かがいる。その誰かと一緒に、私は毎晩過ごしている。
 それは、何をしてくるわけではない。ただじっと、私を見つめている。
 いや……見つめているというよりは、私を見守っているのだ。ただ、黙って。静かに。

 ごろん、と床に転がる。
 ベッドの下が、目に入る。
 
 ねえ……本当はね、私、分かってたのかもしれない。
 分かってたのに、分かりたくなかっただけだった。
 知ってしまったら、全てが終わってしまいそうで怖かった。
 だから……知らないフリしてた。見ないフリをしてた……

 目の前のテレビからは、賑やかな笑い声が聞こえてくる。
 私の瞳からは、涙が溢れる。
 目が合って……ソノ瞳からも涙が零れた。

 ああ……これが真実。
 彼が知るべきだと私に告げた、全ての真相。

 嗚咽だけが、虚しく響く。
 向かい合った瞳からは、ただ涙が溢れている。

――――真相を解明することは、アンタにとって良いことだけとは限らないよ……

 橘君……この真実を、貴方は知っていたのね。
 これが……貴方の瞳が揺れてた理由だったの……?
 
 そして私は、幾度となく口にした言葉を呟いた。





「……雪也…………」








「紫季さん……彼女はあのまま、何も知らない方が良かったんでしょうか……」
「……」
「俺は……あの事実を知った時、最初は……彼女は何も知らないままの方がいいんじゃないかって思ってたんです。恋人がまさか、『ベッドの下の男』だったなんて……」
「でも、お前は真実を知る道をあえて勧めた」
「はい……」
「ならそれが答えだ。正否なんて、俺の知ったことじゃない」
「紫季様、お茶が入りましたわ」
「……」
 無言でお茶を啜る紫季に、香月はなんとも言えない表情を浮かべた。
 そんな香月に、双子の少女は言う。
「でもまあ、香月も頑張ったんじゃない? そんな痣作ってまで調べたんだし」
「香月さん、お怪我の方はもうよろしいのですか?」
「ああ……」
 こめかみに出来た青痣を擦ると、璃亜が顔を顰めた。
「しっかし、自分の女に近付いたってだけで闇討ちするなんて、相当キテるのね、その雪也って男」
「愛深き故の、凶行だったのでしょうね」
 お茶を配りながら俯く璃緒。香月は、調査書をめくりながら呟く。
「……警察が調べても異常を発見できなかったのは、アイツが恋人だったからだ。恋人なら家に来ていても何もおかしくない。だから警察も、アイツの痕跡は除外したんだろうね……」
「灯台下暗しって感じね」
「近すぎて、目に見えないことは多いのです」
「そうだね……」
「ねえ紫季。あの子、どうなったと思う?」
 璃亜の言葉に、目線は書類に向けたまま、そっけなく返す紫季。
「さあな……」
「紫季ってば、ちゃんと答えてよー。じゃないと、報告書書けないじゃない」
 璃亜が口を尖らせると、またしてもそっけない返事。
「何故俺に聞く。藤倉雨音のことなら、香月の方が詳しいだろ」
「いや……俺は……」
「そう言えば雨音さんは……留学なさったんでしたっけね」
「うん……」






「藤倉さん」
「あ、橘君」
 もうこの学校に来ることも無いな……と思いながら購買に立ち寄った時、橘君に偶然会った。
 彼はまた、あの揺れる瞳で私を見ている。
「その……留学するんだってね」
「うん。心機一転、新たな地で頑張ろうと思って」
「そっか……」
 そう言って彼は、言葉を探しているような仕草を見せた。


 あの後……雪也は死んだ。
 私の目の前で、自殺したのだ。



 
最愛の人の手には、暗く光る凶器。
 私はただ、涙を流すことしかできない。

「……俺はただ……お前を守りたかっただけなんだよ」
「雪也……」
「いつもお前の傍にいてやりたくて……お前が心配で……それで……」
「嫌……来ないで……」
「雨音……俺は、お前をずっと見てたんだ。ずっとずっと、お前だけを見てきたんだよ……」
「やめて……雪也……」
「それなのにお前は……俺だけを見ない! 俺がいつも一緒にいるのに、他の男を見るなんて……!!」
「まさか……橘君の怪我、雪也が……!?」
「アイツがいけないんだ。雨音に近付くから……」
「ゆき…や……」
「なあ雨音……最初からこうすれば良かったんだ。こうすれば、ずっと一緒にいられる……」

 空ろな瞳で、凶器を手に私へ近付いてくる雪也。
 壁を背に座り込んだ私に、逃げる術は無い。

 これが真実を知った代償なの?
 知ろうとした、私のせいなの?
 ……もう、遅すぎる。

「雨音……本当に、お前を愛してる……」
「雪……也…………」

 最後に浮かんだのは、あの人の……紅い瞳。
 紫季さん……きっと、貴方は………………。

――――ザクッ! ザシュッ!!

 刺されたのは、私ではなかった。
 自分を傷付けながら雪也は……微笑んでいた。

「やめてっ……雪也ぁっ……!!」
「ははっ……これでっ……雨音は……永遠に俺のモノだ……ぐっ……」

 血飛沫が舞い、私の顔にかかる。
 生温かいそれが、雪也から流れ出る。
 あまりに凄惨な光景に、身動きすら取れなかった。
 ただ、雪也の微笑が悲しくて……私は、涙を流すことしか出来なかった。


 そう……。
 彼は私の前で死ぬことで、私の心に自分を刻み込んだのだ。
 絶対に消えない、傷跡として……。



「その……ごめん。俺が君を嗾けるようなこと言ったから、君は……傷付いた」
「……」
「ごめん……」
「……私ね、あの時……雪也が死んだ時、橘君、貴方を恨んだの。貴方のせいで、真実を知ったせいで、あんな事が起きたんだって」
「……」
「でもね……今は感謝してる。あのまま……あんな異常な関係、続けていけるはずもなかった。何もなかったことにするなんて、そっちの方が怖いもの」
「藤倉さん……」
「それに、橘君が来てくれて……嬉しかったの」



「藤倉さん!!」
「たち、ばな…君……?」
「今、救急車と警察呼んだから! くそっ……」
「……」


 呆然とする私を助けてくれたのは、橘君だった。
 結局雪也は助からなかったけど……彼のおかげで私は救われた。



「……あのね、私ね……多分、貴方のこと……」
 ……好きだった、そんな思いを込めて、彼の瞳を覗き込んだ。
「……俺は……」
「ふふっ……貴方はこんな時も、そんな風に瞳を揺らすのね……」
「……」
「元気で。多分もう、会うこともないと思うけれど」
 そう言って手を差し出せば、ゆっくりとその手を握られる。
「……藤倉さんも、元気で」
 
 ドクン。
 微笑んだ彼の瞳は、やっぱり私の胸を高鳴らせるのだった。






「雨音も中々不憫よね……どっかの鈍感男のせいで」
「いや……彼女は多分……」
 香月の表情からは、何も読み取れない。璃亜は興味を失ったように「ま、関係ないけど」と言い捨てる。
 そんな二人に苦笑しながら、璃緒が呟く。
「でも紫季様……雨音さん、本当に立ち直れたのでしょうか」
 璃緒の視線に気付き、フッと笑みを浮かべた紫季。
「真実を知った者の末路は、二つしかない。謎を食い殺すか、或いは…………」

 言いかけて、途中で言葉を切る黒い青年。
 双子の少女は、何も言わなかった。香月はその瞳を翳らせる。
 鈍く光る彼の紅い瞳が告げる真実を、三人は黙って見つめていた。






――――フランス郊外、某学生寮。

 講義が終わって、寮に帰る。
 私には、幸か不幸かルームメイトがいなかった。私はまた、一人暮らし。

 でも最近……また、“私以外の誰か”が、私と一緒に住んでいる。
 何をしてくるわけでもないけれど……じっと、私を見ている。
 ただ、じっと。息を殺して。

「……」

 不思議なことに、私はこの奇妙で異常な同居生活を、楽しんでいる。
 常に私へ向けられる視線が、心地よく感じられる。
 思えばあそこに……御影探偵事務所に行ってから、私は変わった。
 謎というものに、惹かれるようになった。

 それはあの人の……あの紅い瞳を見てからなのか。
 それとも橘君の、あの揺れる瞳を見てからなのか、それは分からない。

 でも、一つだけ分かることがある。
 私は多分、謎というものに、魅入られてしまったのだ。
 不安や恐怖の中の、好奇心という感情に、囚われてしまったのだ。
 あの人や、橘君の持つ不思議な雰囲気は……多分、こういうもの。
 彼らもまた、謎に魅入られている。だから私は、そんな彼らに不思議と惹かれた。

 ふと、あの人……紫季さんが最後に見せた笑みが浮かぶ。
 あの人はきっと……私がこうなるって分かっていたに違いない。
 謎に魅入られて、抜け出せなくなることに気付いてたんだ。

「ふふっ……本当に……悪魔みたいな人……」

 そして私は言う。 
 何もないはずの、誰もいないはずの空間へ向かって、にっこりと微笑んで。

「クスッ…ただいま、
私以外の誰かさん?」



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