第10章「紫煙はカタルシス」





「んくっ……ごくっ……ぷはぁぁっ……」
「……お前、飲みすぎ」
「……いいんです。ほっといてください」
「付き合わせたの、お前だろーが!!」

 居酒屋特有の、何とも湿っぽい空気が漂う中、男同士が肩を並べて酒を飲み交わすことの、何たる悲しきかな!
 隣を見れば、仲の良さそうなカップルが、楽しそうに談笑している。後ろを振り返ると、宴会席で盛り上がるリーマン達の群れ。はあ……何でこうも、両極端に空気が別れてるんだろうか。
 空になったグラスに、ビールを注ぎ込む。泡が溢れてテーブルに溜まっても、それを拭う気も起こらない。……僕は今、完全にやさぐれていた。
「お前なぁ……明日も仕事だって分かってんのか?」
 大塚先輩が、呆れた様子でそうごちても、僕は気にも留めなかった。どうせなら、二日酔いで具合を悪くして、それ以外のことを何も考えたくなかった。悪いことを考えただけで、吐き気を催すくらいに、べろんべろんになってしまいたかった。
「先輩って……僕が飲むと、絶対に止めますよね。自分はいっつも、泥酔するくせに」
「あぁ? 俺はお前の先輩としてだなぁ、こうやって忠告してやってんだよ。ありがたいと思え」
「有難いどころか、すごい迷惑です。はあ……こんなことなら、先輩なんか誘うんじゃなかった。上手い酒も不味くなります」
「てめえ……喧嘩売ってんのか?」
「ええ、そうです。買ってください、是非」
 僕の言葉に、大塚先輩は大きく溜め息をついた。ちぇっ、結局は先輩が折れちゃうんだ。僕はもう、今誰かと殴りあいたいくらいに、むしゃくしゃしてるってのに。

 何故僕が、こんな気持ちで、こんな場所で、この人と飲んでいるかなんて、今更だろうが敢えて説明する。
 さっき、事情聴取が終わって、麻衣が巴里を外に連れ出した。その形相から、もちろんアイツに文句を言うためだとは想像がついたし、それ自体はいい気味だ、くらいにしか思わなかった。
 問題はこの後だ。
 しばらくして一課に戻ってきたアイツは、麻衣に怒られたとは思えないほど普通だった。それよりも、何か重大なことを決意しているような瞳をして帰ってきたのだ。それを訝しく思っても、当然聞けるはずも無い。
 それからもう少し遅れるようにして、麻衣は一課に戻ってきた。書類やら何やらを取りに来たのだと思ったが……麻衣の様子は明らかにおかしかった。落ち着きなく、忙しくなく視線を漂わせ、何かに駆り立てられるような表情をしていた。そして、持ってきた荷物だけを手に取ると、そそくさと一課を出て行ってしまった。……僕に、何も告げずに。
 別にそれ自体を咎める気も、悲しがる気も無い。
 忙しかった、それだけの理由なら。

 正直僕だって、四六時中彼女と行動を共にしているわけではない。ここ数ヶ月は、ほぼ特捜課に通い詰めてはいたけれど、この先はどうなるか分からない。その証拠に、僕の名前はまだ、捜査一課にあるのだ。特捜課配属扱いにはされていない。

 そのこと自体、何ら不服に思ったことなんて、ただの一度も無かった。……今までは。
 そう……今までは、別に大したことだと思わなかった。
 
 アイツの存在を知って……僕は気付いてしまったんだ。
 アイツが僕に告げた通り、僕の存在はアイツの代わりにすぎなかったら……僕が何故、捜査一課に名前が置かれたままなのか、容易に理解できる。麻衣は何も知らないにせよ、僕は多分、いつでも一課に戻せるようなポジションにいたのだ。そうに違いない。
 巴里が帰国するのは突然決まったようだし、いつまでかかるのかは不明だった。
 だからこそ、僕は都合のいい扱いをされていたに違いない。もし巴里が帰ってこないままなら、僕はあの、宙ぶらりんなまま特捜課にい続ける。そして、巴里が帰ってきたから……

――――僕は、特捜課を外される……


「くそっ……僕はやっぱり、踊らされてただけなのかっ……」
 グラスを煽って、テーブルに叩きつける。
 ガチャンと嫌な高音が響く。ガラスには、綺麗にヒビが入っていた。

 ヒビ――。
 このひび割れは、僕の今の心だ。
 あの春の日、あの事件の時からずっと、手の届かない高みの存在に踊らされていた僕の。

「北林……」
「僕は……一体どうすればいいんだ……」

 握り締めたグラスのひびが、深く大きくなっていく。
 僕の心のように、大きく裂けていく。

 ……いっそのこと、このまま切り裂かれてしまえばいいのに。
 そうしたらもう、悩むこともなくなるのだろうか。
 こんなことで、苛立ったり、腹を立てたりすることもなくなるのだろうか。

 あの日、麻衣たちと出会う前まで、僕は全部、自分自身の力で進んできた。
 誰に指図されることもなく、誰かに頼るわけでもなく、ただ自分の信念を貫いて生きてきた。

 周りから見れば、優等生だっただろう僕。
 でもそれは、僕自身が望んでその器に収まっただけのこと。
 勉強が出来た、運動が出来た。――――そんなことは、僕の努力が報われただけだ。
 天賦の才能があったわけじゃない。僕は僕なりに、出来る限りの努力をしてきたのだ。
 だから正直、この結果は当たり前だと思っていた。それに見合うだけの努力を、僕はしてきたのだから。

 でもあの日、あの事件。
 あの時初めて、自分の努力が報われない経験をした。
 努力なんて言葉など、全く意味を持たないかのように起こる惨劇、悲劇、喜劇。
 全てが僕の手の届かない場所で起きて、後悔することしか出来なかった。自分の力が及ばないことの歯痒さを痛感し、苛立った。

 ……あの事件を麻衣と二人で解決して、僕はそれすらも乗り越えたと錯覚していた。運命に翻弄されても、最後を決めるのはやはり自分の力だと再確認したつもりだったのに……。
 そもそも、あの出会いが仕組まれたものなら、今のこの現状だって仕組まれたものだった。
 今ならそう考えられる。仕組まれた出会いから何が生まれても、それはその螺旋の中を巡るしかないのだ。
 麻衣との間に芽生えた絆、信頼関係だって、その螺旋の中の一つにしか過ぎない。螺旋を形作るものは、もっと巨大で強大で。僕たちの些細なやり取りすら、何ら影響を与えることは出来ないのだ。

 その螺旋の中に、僕や麻衣たちはいる。
 巴里……アイツだって本当は、その螺旋の一部でしかない。

 国家公務員という肩書きの僕らは、つまりは国家のために働く者。言い方は悪いが、国家の犬だ。
 忠実に、国のために動く犬。
 犬は所詮、主人に逆らうことは出来ない。どんなに足掻いても、もがいても、そこから這い上がることは出来ない存在――――それが、国に庇護される存在の僕ら。
 僕らは、公務員を選んだその日から、国に逆らうことなど出来ない。もっと言ってしまえば、権力に逆らうことが出来ない。
 そういう世界を自ら望んで、そこに浸ってしまったのだから。

「……僕が望んだ世界は……こんなのじゃなかったのに……」

 その時、ふわっと鼻先を紫煙の香りが掠めた。隣を見れば、大塚先輩がタバコをふかしている。
「……吸うか?」
「……じゃあ、一本」
 口に咥えると、先輩がすかさずライターを近づけてくれた。
 立ち上る煙を、思い切り深く吸い込む。

 重い、鉛のような煙が、肺に落ちていくのを感じる。
 頭に靄がかかったようになり、軽い眩暈が起こる。
 普段なら、あまり好まないこの感覚も……今は何故か、荒れた心を落ち着かせてくれる、安定剤代わりになった。

 大人しくなった僕を見て、先輩が煙を吐き出した。
「……少しは落ち着いたかよ?」
 無言で頷くと、先輩は苦笑した。
「お前が荒れるなんて、珍しいじゃねえか。大抵のことは穏便に済ませちまうってのによ」
「そっちの方が、楽だからですよ……」
「下手に好戦的より、よっぽどいいぜ。佐伯や白瀬を見ただろ? あいつらみたいなのが世に蔓延るから、俺らみたいな善良な人間が痛い目見るんだ」
「佐伯……」
 呟いた僕の言葉に、重みを感じたのだろうか。先輩が、複雑そうな表情を浮かべた。
「……お前が荒れてる原因も、アイツ絡みなんだろ?」
「分かりますか、やっぱり」
「何となく、な」
 僕は煙草を燻らせながら、ぽつりと言った。
「僕……分からないんです」
「何がだ?」
「自分が……です」

 僕が分からないのは、自分自身だ。
 何に苛立っているのだろうか、僕は。確かにアイツの存在は腹立たしいけれど、僕をそこまで脅かすものなのだろうか。
 アイツが特捜課に配属されたとして、僕が一課に戻って……何か不都合な点でもあるのか? と聞かれたら、僕は答えに窮するだろう。だって、僕自身、どんな問題も思い浮かばない。
 警察にはいられるだろう。刑事職を剥奪されることもなさそうだ。
 別に、麻衣たちと会えなくなるわけではない。ただ一緒に行動しなくなるだけなのだ。

 でも僕は、それを頑なに拒否している。そうなってしまうのを、とても怖れている。
 アイツに、今の僕の居場所を取られてしまうことを、心底嫌がっているのだ。

 僕は特捜課、というポジションに執着しているのだろうか。それとも、麻衣という存在に?
 じゃあ彼女がもし、1課に戻ることになったとしたら……? それでも僕は、特捜課に居続けたいと願うのか?

「頭抱え込むほど、悩んでるみてぇだな」
「……」
「話せよ。そしたらちっとは楽になるだろ」
 いつの間にか僕の手元には、日本酒が注がれた猪口が置かれていた。
「……聞いてくれるんですか」
「じゃなきゃ、今ここにいねえよ」
 ぶっきら棒に言い捨てる先輩。しかし、その存在の大きさを僕は確かに感じ取った。
「ははっ……そうです、よね。やっぱり先輩は、僕の先輩だ」
「何わけわかんねえこと抜かしてんだ。とっとと話しちまえよ」
 先輩に促されるがまま、僕はぽつりぽつりと自分の気持ちを吐き出していった……。





「……こんなところです」
 心の内を、洗いざらいぶちまけて、荒んだ気持ちは幾分か晴れていた。黙って聞いてくれた先輩にお礼を言おうと向き直る。
「聞いてくださって、ありがとうござ…………なっ!?」
「ぐー……ぐー……」
「ね、寝てるし……」
 随分静かだと思ったら……やっぱり先輩は、先輩だった。イライラして、思いっきり肩を揺さぶる。
「先輩! 大塚先輩!」
「んぁ? ……おぉ、やっと終わったか」
「何言ってんですか!? 人がせっかく話したって言うのにあんまりじゃないですか!!」
 息を荒くして怒る僕に、大塚先輩はめんどくさそうに手を振った。
「何言ってやがる。てめえの悩みなんて、居眠りしたくなるほど退屈な悩みだろうが!」
「はっ!? 居眠りだって? いくら先輩でも、言ってもいいことと悪いことがありますよ!」
 一度でも先輩のありがたみを感じた自分を恥じる。何て酷いんだろう! せっかく打ち明けたのに、こんな風に言われるなんて……。
 しかし当の本人は、逆切れしたかのように僕を睨みつけてくる。な、何だって言うんだよ!
「おい北林。てめえはこんなくだらねえことで、ぐちぐち悩んでやがるのか!?」
「ぎゃ、逆切れですか!? しかもくだらないなんて……先輩に僕の気持ちは分からないですよ!!」
「お前の気持ち? は? お前、何ほざいてんだよ。俺にお前の気持ちが分かるわけねーだろーが!」
「かっちーん!! じゃあ何のために僕に話させたんです!? 僕の気持ちを汲み取ってくれようとしたんじゃないんですか!?」
「俺はそんなこと一言だって言ってねえよ。それに、てめえの気持ちは、嫌ってほどてめえ自身で喋りまくってんじゃねえかよ。今更俺に何を分かってもらいてえんだ?」
「べ、別にそういうつもりじゃ……」
「お前は岡野に惚れてんだろ? だったらそれをアイツに言やあいいだけだろーが!」
「…………は?」
「何抜けた声出してんだよ」
「いや、僕が彼女に何ですって?」
「あぁ? お前は岡野に惚れてんだろって言ってんだよ。てめえ、さっきからそれしか言ってねえだろうが」
「……え、ちょ、待ってくださいよ! どうしてそうなるんです?」
 僕の言葉に、大塚先輩は目を丸くしている。いや、僕のほうが目が丸いだろう!
「お前……何言ってんだ? てめえの悩みは、佐伯に岡野を獲られそうだってことじゃねえか」
「……え!? ぼ、僕が麻衣に惚れてるって!?」

 僕は、コンタクトが乾くくらいに大きく目を見開いた。ぎょろ、っと音が鳴るくらい。
 先輩は半目で、呆れたように僕を見つめている。

「……お前、まさか自分で気付いてなかったのかよ」
「いや、あの……」
「はあ……」
「溜め息つかれても……」

 大塚先輩の言葉に、僕の頭はぐちゃぐちゃになっていく。

 そんな風に考えたこと、なかった。
 麻衣はいつも一緒にいるのが当たり前になっていて……改めて、そんな関係を思い描いたことは無かった。

――――ただの一度も?

 ……いや、考えたことはあったかもしれない。むしろ女性と二人きりで、何も考えないなんてあり得ない。僕だって男だし、そういう関係を考えなかったことはない……はずだ。
 曖昧になってしまうのは、それ以上に満たされていたからだ。今の生活、彼女と、それを取り巻く環境たちとの毎日に。
 良くも悪くも刺激に満ちた毎日を、僕は心底楽しんでいたに違いない。恋愛なんて後回しに出来てしまうほど、毎日が充実していたのだ。

「……ま、道理で生き生きしてたわけだな」
「え?」
「研修なんて嘘つきやがって。お前、特捜課に配属されてんだろ?」
「え!?」
 突然そう指摘され、僕は取り乱した。何でバレたんだ?! 一言も特捜課のことには触れてないのに!!
 先輩は、さも当然のような口調で言う。
「俺様を見くびってんじゃねえよ。お前の動きは、違和感ありありなんだっつーの。岡野と連れ立って一緒に動くお前の話、よく出てたからな。捜査一課の一部には、普通に知れ渡ってるぜ」
「なっ……」
「ま、お前に隠し事は無理だったってことだな」
「そんなぁ」
 麻衣にばれたら、僕は本気で終わる。冷や汗を浮かべた僕に、先輩はにやにや笑みを浮かべた。
「まあ、惚れてる女とずっと二人っきりでいられたら、生き生きもするってもんだよな。ったく、仕事そっちのけで毎日逢引かよ。いいご身分だなオイ」
「なっ、ち、違います! 僕は彼女のこと、そんな風に見たこと……。第一、彼女は僕の相棒です! 恋愛感情とか、そういうの抱く相手じゃないんです!」

 言った後に、「本当にそうなのか?」という心の声が聞こえてくる。
 しかし、僕にはそれに答える術がなかった。
 先輩は何も言わずに、酒を飲んでいる。

「……僕はただ、彼女と離れたくないだけなんだと思います。そりゃあ、好きか嫌いかと聞かれたら、間違いなく好きです。でも……それが恋愛感情なのかどうかは……」
「別にそれでもいいじゃねえか」
「え……」
「惚れた、腫れた……なんて、後からいくらでも付け足せる。大事なのは、そん時のてめえの気持ちだろ? 離したくないって思ったんなら、その気持ちが愛だろーが恋だろーが何だっていいんだよ。そんなもんは、手に入れてから考えろよ」
「……」
「そもそも恋愛なんて、一種の執着みたいなもんだ。お前はアイツに執着してる。それだけで、佐伯とやり合う理由は十分じゃねえのか?」

 先輩の言葉に、僕は目が覚めたような気分だった。
 好きとか、嫌いとか……そんなのはどうだっていい。
 ただ僕は、麻衣と一緒にこれからも特捜課を続けていきたいんだ。
 それだけが、僕の今の気持ち……。

「僕は彼女に……執着してるんですね。……うん、そうだったんだ」
「それだけは間違いねえだろうよ。ま、それが愛なのか恋なのかどうかは、俺の知ったこっちゃねえけどな」
 そうぶっきらぼうに言って、先輩は立ち上がる。僕は慌てて後を追う。
「あ、お会計は僕が……」
「あぁ? てめえみたいなひよっこが、何、生意気抜かしてやがる。いいからとっとと出るぞ」
 くしゃくしゃになったお札を数枚レジに置くと、お釣りも貰わずに先輩は外へと出て行く。「ありがとうございました」と響く声に、僕は振り返りながらお辞儀をして、遠くなっていく先輩を追いかけた。



「せ、先輩……その……ご馳走様でした……」
 先輩と二人、夜道を歩く。
 秋色に染まった木々の合間を、少し冷たい風が吹き抜ける。今夜は月が綺麗だ。
「あぁ、感謝しろよ」
 ジャケットの襟元を合わせて、タバコを咥える先輩。

 何だか今日は、先輩に色々なことを学んだ気分だ。
 先輩はきっと、人生経験が豊富なんだろうなと思う。
 普段はあまりやる気があるように見えないけど、実は結構な実力者だと僕は感じている。じゃなきゃ、新人の指導なんてやらせてもらえるはずはない。
「先輩は……誰か、好きな人とか……いるんですか?」
 ふと、そんな言葉が口をついて出た。
 先輩の女性関係は、実のところあまりよく知らない。キャバクラ通いしてるとか、よく交通課の女の子にセクハラしてるとか、そんなのは噂に過ぎない。

「…………さあな」
 随分と長い間を空けて、溜め息のように呟く。
 煙が長く線を描き、風にかき消される。
 煮え切らない答えだったけれど、何故かそれ以上は聞けなかった。
 意外な返答と態度に、困惑してしまったのだ。

「ほら、くだらねえこと考えてねえで、今日は帰ってとっとと寝ちまえ」
「あ、は、はい……」
 先輩はそのまま、踵を返す。
「俺はこの後呑み直すからよ」
「お、お疲れ様でした」
 後ろ向きのまま片手だけ挙げて、木々の向こうへと消えていく先輩。僕はしばらくの間、そこに立ち尽くしていた。

 先輩の好きな人……。どんな人なんだろうか。
 先輩も今日の僕のように、悩んだりしたのだろうか。それで、手に入れたのだろうか……その人を。
 ……今の僕が、余計な詮索しても無意味なのだけど。

「はあ……もう帰って寝よう……」
 一人呟いて、車道へ出ようとした時だった。
 二人の男女が、並んで歩いてくる。
 何となく、居心地の悪さを感じ、慌てて近くの茂みへと身を隠す。……これじゃあ何だか、不審者だ。
 やがて、二人が近くなってきて、月明かりがその姿を照らし……僕は思わず息を呑んだ。

――――麻衣と巴里だった。

 心臓が早鐘を打ち、冷や汗が額に滲む。
 何ていうタイミングなのだろう。
 よりによって、今一番会いたくない相手が、目の前に現れたなんて……。
 でも、二人が気になって仕方ない僕は、その場から去ることも出来ずに、結局は覗き見……聞き耳を立ててしまうのだった。



 巴里と笑い合う麻衣。
 麻衣はあんな風に笑えるのか……と、初めて彼女を見たような感覚になった。
 麻衣の笑顔なら、いつも見ていたはずなのに。あんな、女の子らしい笑顔を、僕は見たことがあっただろうか。
 巴里だって、まだ会って一日と経っていないけれど……それでも、あんな風な笑顔を他人に見せるなんて、想像付かなかった。

 彼と彼女は、とても自然だ。

 麻衣の前では、刺刺しさが見えない巴里。
 巴里の前では、強さよりも儚さの方が浮き彫りになる麻衣。
 僕といるときは、どちらかと言えば頼りがいのある、カッコイイ女性……というイメージだ。
 儚くて、守ってあげたくなるような……という印象は無い。一緒に、険しい道も乗り越えていきたくなるような、まさに相棒という言葉が相応しい存在が、僕の知っている麻衣だった。

 でも……多分、巴里の知っている麻衣は違う。
 きっと巴里は、麻衣の儚さや弱さを知っている。そしてそれを、補い、支えようとしている。
 強さと弱さのバランスが危うい彼女を、アイツはリードしていくのだ。

 そんなことを考えた時、聞きたくない、決定的な言葉が聞こえてきた。

「ボクをパートナーにしなよ」

――――っ!!

 巴里がついに、麻衣に告げてしまった。
 僕は反射的に、逃げ出したくなる。
 でも……動けない。

「ボクはお前と組みたい。そのために、日本へ戻ってきたんだから」
「巴里……」
「ホントは、すぐにでもお前と組めると思ってた。だからアイツの存在は予定外だったよ」


 ……僕のこと、だろうか。

「帰国が決まって、兄貴と話して……初めてアイツがお前のパートナーになってるってことを知って、正直……少しショックだった」

 僕の前では、あんなに好戦的だった巴里。しかし今は……麻衣の前で話すアイツの声は……切なさに濡れている。
 何となく、少しの罪悪感のようなものが、僕の心に染み出してきた瞬間、アイツは麻衣の肩を掴んだ。

「だから、お前が決めて。オレを取るか、アイツを取るか。特捜課をやっていく上で、お前が必要なのはどっちなのか」
「っ……」


 麻衣が息を呑んだのが分かった。

「オレがいない間…その隙間を埋めたのがアイツでも、今のオレはそれ以上にお前を支えてやれる自信があるよ。絶対に、オレを選んだことを後悔させない……!」
 
 余裕ぶった表情からは想像できないほど、気持ちが高ぶっている声で告げる巴里。
 麻衣、君は……。

「わたし……は……」

 困惑に揺れるような声。
 麻衣が巴里を見上げる。

「ねえ……三人一緒は無理なの? どっちかじゃないと、駄目なの?」

 麻衣が即答でアイツを選ばなかったことに、少し安堵した。
 しかも、三人一緒……と言う所が、彼女らしい。その甘さが、彼女の強さであり、弱さでもあるのかもしれない。
 そして、案の定首を振った巴里に、麻衣の肩ががっくりと下がるのが見えた。

「麻衣……今すぐに返事はしなくていいから。来週の日曜、ボクはまた一度イギリスへ戻る。色んな雑務を片付けないといけなくてね。だから、土曜の夜に、もう一度お前に聞く。その時に、答えを聞かせて」

 来週の土曜……。あと、十日後。
 その日に、麻衣は僕かあいつを選ぶのか……。

「待って……」

 巴里を呼び止めた麻衣。
 巴里の顔は……切なく伏せられている。
 麻衣の位置からじゃあ、多分逆光で見えないだろうけれど……。

 何だよ、あれじゃあまるで……

――麻衣に恋してるみたいじゃないか……。

「もし……もし私が……選ばなかった方は、どうなるの?」
「……何てことはないよ。ただの刑事に戻るだけ」


 ただの刑事に戻るだけ……。
 僕は多分、そうなんだろう。

 でも……巴里は?
 アイツは、麻衣と組むためだけに戻ってきた。
 もしそれが叶わなかったとしたら? アイツは僕のように、捜査一課に戻れるのか? 
 アイツには負けたくないが、アイツもある意味僕と同じ立場に立たされているのかもしれない。いや、もしかしたら僕以上に危ういところにいる。
 去り行く巴里の背中からは、何も読み取れなかったが、アイツの言葉には、様々な思いが含蓄されているように思えてならない。
 
 呆然と立ち尽くす麻衣を見つめる。
 君は……どんな答えを出すんだ……?



 月が僕たちを、遥か高みから見下ろしている。
 さっきまでは綺麗だと思えたそれが……その高みが、何だかとても不愉快に感じられた。



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 随分ご無沙汰してしまいましたが、続探10章です。ホワイトデーのアップ……は無理でしたが、1日遅れな感じでお送りしてます。
 さてさて、再びラブ満載で頑張ってるつもりなんですが、どうにもこうにも進みません。探偵乱舞のテーマは、やっぱり友情とかそういうのなので、恋愛は上手く書けません(;´▽`lllA`` というか、書きたくない(本音出たー)
 義高と巴里、二人が麻衣に抱く気持ちは、似てるようで違います。麻衣が二人に抱く気持ちも、また違うでしょう。友情と愛情、親愛と恋愛……うーん、難しいですねぇ。でも、恋愛を越えた先に、相棒関係があるような気もします。相棒は、いわば戦友でしょう。共に苦境を乗り越えていく関係。これは、恋愛よりも遥か高みにあると考えてます。とりあえず、頑張れ! とだけ(笑)