「おーい、香月、美咲」
午後の講義の合間、俺は教室から出てきた友人二人に駆け寄った。
「何だ?」
「お前らさ、夏休み一緒にバイトしねえ?」
「バイト……って、突然何よ」
美咲が訝しげな顔で言う。
「めっちゃ割のいいバイトがあるんだって! 絶対嘘みたいに儲かるって有名なんだよ。なあ、一緒にやろうぜ」
「一体どんなバイトなんだよ」
香月の問いに、俺は胸を張ってふんぞり返った。
「よくぞ聞いてくれた! 何とびっくり、『死体洗いのアルバイト』だ!!」
どうだ、二人とも!! これは食いつくに違いない……と思ったが、二人は俺を無視して先を歩いていた。
「あ、おいこら! ちょっと待てよ!!」
慌てて追いかけるが、二人は俺のことなど気にせずに、昨日のドラマの話で盛り上がっている。何だよ、ちくしょー!
「せっかく三人で金をがっぽり稼いで遊ぼうって思ったのによ。冷てーの」
呟きが聞こえたのか、美咲がくるっと振り返る。その顔には、哀れみと同情が浮かんでいた。
「……鷹司ぃ、いくら暑くてダルイからって、死体洗いなんてしてる場合じゃないでしょ。それよりも補習、大丈夫なの?」
「え」
「そうそう。お前、試験赤点あったんだろ? レポートと課題クリアしなきゃ、夏休みなんて無いんじゃねえの?」
「ぐ……そう言えば……」
確かに俺、いくつかヤバかったような気がする……。押し黙った俺の両肩を、二人はポンポンと叩いた。
「ま、補講乗り切ったらどっか遊びに行こうぜ」
「ちゃんと勉強するんだよ、鷹司。じゃ、またねー」
ひらひらと手を振って去っていく二人に、俺は何とも言えない気持ちだった。ていうかアイツら、俺の話なんて信じちゃいねえ。
ポケットから折りたたまれたチラシを取り出して、凝視する。
俺だって、何も夢物語でこんな話をしてるわけじゃない。まあ、『死体洗い』っていうのは嘘だけど。
ちゃんと貼り紙がしてあったんだ。電話で確認したし、間違いない。人数限定だから早く、そう思って二人にも声を掛けてやったのに。
最近あの二人が、妙に余所余所しいっていうか、何か前と雰囲気変わったっていうか……何ていうか俺、淋しいんだ。だから三人で金稼いでパーッと遊べば、前みたいな感じに戻れるかなって思って……そう。取り戻せ! 友情!!
それなのにアイツら、俺の気も知らないで!!
見てろよ、二人とも。この休み中に、がっぽり儲けて、セレブの仲間入りしてやるからな! そん時バイト紹介してっつっても、絶対に紹介してやらねえからなーーーーー!!!!
「ここか……」
夕暮れ時、俺は指定された場所にやってきた。
聖桜大学付属病院。ここで、例の『死体洗いのアルバイト』……もとい、高報酬バイトを募集しているらしい。夕焼けに照らされた病院は、どことなく物悲しく、暗い翳りを帯びている。……カラスがギャーギャー煩く鳴き、雰囲気はこれ以上無いというほどに出ている。ぐっ……ちょっとだけ、帰りたくなってきたぞ……。
話によると、裏口がアルバイト専用に開けられているらしい。少しだけ逃げ出したくなる気持ちを抑えつつ、病院の裏手に回ると、木々の影になった一角から薄明かりが漏れている。どうやらあそこが、裏口のようだ。
蝉<せみ>か蜩<ひぐらし>か分からないが、鳴き声が一層激しくなった気がするのは、そこがあまりにも静まり返っているからだろうか。何はともあれ……鳥肌が立ってきた。
「――――城戸さん、ですね?」
「ひっ!?」
背後からの声に、俺は思わず情けない声を上げた。恐る恐る振り返ると、白衣を着た三十代半ばくらいの男が立っている。
「あ、あの……」
「どうぞこちらへ。もうすぐ説明会が始まりますよ」
「は、はあ……」
裏口を入ると、今にも消えかかった電球が物悲しげにちらついた。男はそのまま、階段を下っていく。どうやら地下へと繋がっているようだ。俺はごくりと唾を飲み込むと、駆け足で男の後を追いかけた。
階段を下りた先は、それこそホラー映画に出てきそうな程退廃的な雰囲気を纏っている。天井には蜘蛛の巣がかかり、壁は崩れ、扉には錆がこびりついている。廊下を歩くたびに、ギシギシッと嫌な音が響く……。
「な、なんか……雰囲気のある場所ですね……アハハハ」
「……」
恐怖を少しでも無くそうと、前を歩く男に話しかけてみたものの……何も返答は返ってこない。そればかりか、男はこちらを振り向くことすらしない。むっ、愛想が無いのも程があるぞ!
男は突き当たりにある部屋に向かっているようだ。扉のガラスから、微かに明かりが漏れている。話し声も聞こえることから、あそこが説明会場らしい。
「どうぞ」
男は扉を開け、俺を中へ入るように促した。中を覗くと、先に数名来ているようだ。
近くの椅子に座ると、隣に座っていた男が話しかけてきた。
「なあ、アンタもここの病院の『噂』目当てで来たクチ?」
「は?」
俺の反応に、男は不思議な顔をする。何となく、イントネーションが西の方だ。
「は? じゃないやろ。アンタ、知らんの? ここの病院の黒い噂」
「何だそれ、黒い噂って?」
「ハハハ、とぼけなくてもええって。俺だって、それ目当てで来たんやし♪ まあ、仲良うしようや」
見た目は、ほぼ俺と同年代に見える。しかし、妙に派手な髪色と、関西訛りがウソくさいっていうか……とにかく、エセくささがプンプンする男だ。
「何言ってんのか、全然わかんねえんだけど……」
俺があまりにも不可解な表情を浮かべたためだろう。目の前の男は、信じられないといった様子で俺をまじまじと覗き込んだ。
「ホンマかい!? 知らないで、よくこのバイト募集に引っかかったな」
「そうなの? ていうか黒い噂って何なんだよ?」
話についていけてない俺に、男は楽しそうに笑った。
「まあ要するにな、この病院にはあの有名な噂『死体洗い』が存在してるっちゅーことや」
「『死体洗い』って、あの都市伝説の? まさか、だってあれはただの――――」
「ただの噂やない。これは確かなスジからの情報やしな」
死体洗いのアルバイト。話は知っている。ついさっき、香月たちにだって話した言葉だ。噂の概要を簡単にまとめると、「大学病院の地下には、解剖用に使う死体を浮かべるホルマリンのプールがあり、そのホルマリンに浸かった死体を洗うバイトがある」というものだ。誰でも知っている、有名すぎる都市伝説だ。
「ハハハ、冗談キツイよ。あんな有名な都市伝説、今時小学生でも信じないって」
思わず笑ってしまった俺に、男は妙に真剣な表情で言う。
「いや……これは嘘やない。確かに存在しとる。現に俺は、実際に死体洗いをした奴から紹介されて、今ここにいるんやからな」
「まったまたー」
「嫌でも信じることになるで。ほら、説明が始まるみたいや」
「……」
何となく、微妙な気分になったところで、白衣を着た男が前に立った。
「皆さん、本日はお集まりいただきありがとうございます。今から、今回募集させていただいた、アルバイトについてご説明させていただきます」
男がそう言うと、奥の部屋から数名の男女が出てきた。皆、手に何かを持っている。……デッキブラシ? と、あれは……ウェットスーツ……???
「まずは皆さんに、こちらの服に着替えていただきます。準備が出来た方から順に、このデッキブラシを持って奥の部屋へとお進みください」
訳が分からないまま、俺はウェットスーツを着て、手にはデッキブラシを持っていた。隣の男が、嬉しそうにはしゃぐ。
「キタキタキタ!! 今からホンマに……あの伝説を体験できるんや……!!」
……かなり危険な感じがするので、近付かないでおこう。幸い、俺のことなんて目に入っていないようだ。さっさと奥の部屋へと行ってしまった。
「あの〜……一体何をするんですか?」
部屋の隅に立っていた、スタッフらしき女の子に尋ねる。すると、無表情にこう返された。
「詳しいことは奥の部屋でお話します」
「あ、そう……」
どうやらここの病院のメンバーは、皆一様に無愛想らしい。俺は、何だか投げやりな気分で奥の部屋へ進んでいった。
部屋に入ると、また階段があった。どうやらさらに地下があるらしい。しかし、その階段の前には鉄格子が嵌められており、鍵が厳重に掛けられている。
「ここから先は、こちらのマスクとゴーグルをしていただきます。準備が出来ましたら、最後にこのゴム手袋を嵌めて、こちらの階段を下りていただきます」
パッパッとマスクとゴーグルが手渡され、仕方なく装着する。何だか、ダイバーもびっくりな重装備だ。ゴム手袋をした俺は、何となく背中に嫌な汗をかいた。隣にいた例の男は、鼻息が荒いためか、マスクの中が白く曇っている。完全にやばい、絶対。
ギィィィっと、不吉な音と共に鉄格子が外される。階下から、何かの唸り声のような音が聞こえる気が……きっと、風が吹き込んでいるせいで、そんな風に聞こえるに違いない。俺は自分をそう納得させた。
……あれ、気付けば最初にいたメンバーよりも、少し減ってないか? すると、何人かがマスクと手袋を突っ返し、逃げるように部屋から飛び出ていくのが見えた。
まさか、逃げ出した……?
「城戸さん、支度が出来ましたら降りてください」
「え、あ、いやあの……」
俺もあの連中に付いて、逃げ出した方が良いんじゃないか。そんな思いが駆け巡る。何だかとてつもなく、嫌な予感がする。しかし、マスクをしっかり装着した今となっては、もはや上手い言い訳も出来ない。頷きのジェスチャーと共に、俺は階下へと下るしかなかった。
真っ暗闇の中、巨大なプールが見えてきた。
まさか……嘘だろ……!?
「……どうしました、城戸さん?」
「っ……ここは……どこですか……?」
言葉を失いかけた俺に、白衣の男は淡々と言った。
「当院の保管庫です。ここには、様々な医療器具などを保管してあります」
「保管庫……?」
何で保管庫にこんなデカイプール(?)があるんだよ……!!
「この……プールみたいなのは……?」
「ああ、これは消毒用洗浄プールです」
「はあ……」
俺の反応とは裏腹に隣にいた例の男は、プールの周りを嬉々とした様子で駆け回っていた。……コイツ、マジでやばくね?
「ホンマや……ホンマにここに、あの伝説が……!!」
そう言っては、全身で感動を表している。ウザいので、ほっとこう。
しかし、よく見るとプールの中には何人かの人間が、既に作業をしているようだ。言うまでも無く、死体を洗っているようには見えない。ただ、プールの中を歩き回っている様子だった。
……そうだ。あんな都市伝説が、目の前に展開されるわけあるかってんだ! 俺は何をびくついてるんだ。美咲じゃあるまいし! よし、何だか怖くなくなってきたぞ。
「そ、そうなんですか……よし、で、俺は何をすれば?」
「これを使って、綺麗にしてください」
白衣の男が言っているのは、俺が持っているデッキブラシだろう。要するに、これで消毒液が溜まったプール内を掃除しろ、そう言っているのだ。
「分かりました! よし、やるぞ」
やる気になった俺は、大して躊躇いもせずにプールに足を踏み入れた。
「おわっ……思ったより、深いぞ」
薄っすらとした灯りしかないため、プール内もあまりよく見えない。ただ、俺の他にも数名が俺と同じようにプール内を動き回っていることだけは分かった。
デッキブラシを、プール内で動かす。しかし、こうも暗くてはきちんと掃除出来ているのかも分からない。そもそも、どうしてここは、こんなに暗いのだろう。
「あの……すみません。もう少し、明かりを強くしてもらえませんか?」
白衣の男を見上げて呼びかける。すると、男は少し躊躇いがちに言った。
「……すみませんが、明かりをこれ以上強めるわけにはいかないんです。光に敏感に反応してしまうものが多いので……」
「そうなんですか。でも、これじゃあちゃんと掃除出来てるのか分からないっすよ」
「大丈夫ですよ。きちんと出来てますから」
「……そうですか? なら、いいんすけど」
何となく腑に落ちなかったが、俺はそのまましばらくプール内を歩き続けた。勿論、デッキブラシでプールの底をゴシゴシと擦りながら。水の中では力もいつもの数倍は必要だ。段々と手の感覚が無くなってきた……。やっぱり、高額のバイト料がもらえるだけあって、重労働だ。
そんな時だった。背中に、何かがぶつかる感触がした。他のバイトにぶつかってしまったのだろう。俺は慌てて振り返った。
「すみません! 暗くてよく見えなくて……ひっ!?」
頭を上げた瞬間、俺は息を呑んだ。
そこには、顔の半分が焼け爛れて、皮膚が崩れ落ちそうなほどたるんだ老婆がいた。白目を剥いて、口と思われるところからは得体の知れないものを吐き出している。
――――ゾンビ
この言葉が一番ぴったりだった。
「ぎぎぎぎぎぎぎぎぎぎぎぃぃぃぃぃ、だずげ、でぇえええ」
うめき声のようなものを上げ、こちらに近づいてくる。
ソイツと目が合った瞬間、俺は今まで堪えていたものが全てあふれ出てくるのを感じた。
「ぎ……ぎゃあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!(涙)」
俺は持っていたデッキブラシを振り回しながら、必死でプール内を逃げ惑った。
「来るなっ!! こっちへ来るなよ!!」
早く上に上がらなくては! そう思って逃げている途中、今度は誰かに腕を掴まれた。
「何だよ!? 俺は今急いでっ――――うわぁああああああああああ!!!!!!!!」
掴まれた腕……の先には、何も無かった。ただ、数メートル先に片腕の無い、真っ黒いシルエットが無い腕を振り回しているのが見えた。
「うわぁああああああああああ!!!!!」
――――――――――――――――
――――――――――――
――――――――
――――
――……
……
そこから先はよく覚えていない。ただ、何とかプールから這い上がり、持っていたデッキブラシを放り投げ、後ろを振り返らずに地下から逃げ出した。
説明会会場に戻った俺は、被っていたマスクを脱ぎ捨て、立っていたスタッフを問い詰めた。
「おいっ、あれは……あれは何なんだよ!? 本当に、あれは死体洗いのアルバイトなのか!?」
しかし、スタッフの対応はあっさりしたものだった。
「何をおっしゃっているのか分かりませんが……死体などどこにも無いですよ。あなた方にお願いしたのは、ただの掃除です。まさか、死体を洗うなんてこと、あるわけがないじゃないですか」
「で、でも俺は確かに……!!」
「死体などありませんよ。あそこには、生きた人間しかいません」
「っ……もういいです。金はいらないんで、俺、もう帰ります!」
「そうですか。お気を付けて」
ウエットスーツをその場で脱ぎ捨てた俺は、一目散に病院から駆け出した。身体に付いた、消毒液(?)の臭いが鼻につくが、そんなこと構っていられなかった。
外はすっかり日が落ち、薄暗い闇に包まれていた。虫の声も幾分か静まり、木々のざわめきが少し強まっている。ふと周りを見渡すと、最初の部屋で見掛けた顔が何名かが集まって話している。俺は、何となく彼らに近付いていった。
「あのぉ」
俺が話しかけると、青冷めた表情で集団の一人が顔を上げた。
「……ああ、貴方もさっきのメンバーにいましたよね? ……やっぱり、逃げてきましたか」
「あそこ、やばくないっすか?! 絶対俺、化け物を見たとしか」
そこまで言うと、別の一人が首を振る。その顔は、真っ白で血の気が感じられない。
「いや、あそこには、化け物なんていないよ……スタッフの人が言うとおり、生きた人間しかいないんだ……」
「でも、俺、確かに見たんです! ゾンビみたくなって、プールを彷徨ってる化け物を!!」
さっきの体験を思い出して身震いをすると、今まで黙っていたまた別の一人が静かに言った。
「……違うんだよ。アンタ、気付かなかったのか……?」
「え?」
「俺……アイツら、知ってるんだ。だって、先週まで病室で……」
そこまで言うと、その男は何か思い出したかのような素振りを見せ、一人走ってどこかへ行ってしまった。残された俺たちは、訳も分からないままぽかんと突っ立っていた。しばらく経って、さっきの真っ白い顔をした奴が、突然奇声を上げた。
「ひっ!!!! そっか……そういうことか……!!!」
「うわぁっ!? な、何だよ突然! どうしたんだ!?」
思わず飛退いた俺になんて目もくれず、男は宙を見ながら何か言っている。
「アレ、生きてるんだ……生きてる、生きてるんだ!! あはははははははっ……あはははははあはは!!!!!!」
「おい、アンタ一体――――」
別の男がそいつの肩を掴むと、そいつは狂ったように叫んだ。
「人間なんだ!! アイツらは生きた献体なんだよ……!!」
「ひっ!?」
言葉を失った俺たちに、追い討ちを掛けるような声が聞こえた。
「……だから言ったでしょう? あそこには、生きた人間しかいないと。でも、皆さんがプール内を移動してくださったお陰で、『彼ら』を綺麗に消毒することが出来ましたよ。フフフフフフ……」
振り返った先には、白衣の男の微笑みがあった。
「ぎ……ぎゃぁぁぁぁぁぁああああ!!!! 出たぁぁぁぁぁぁああああっ!!!!!!!!!!!!」
俺たちが揃って逃げ出したのは、言うまでも無い。
――――数日後。
俺は地元の総合病院に来ていた。もちろん、今回もバイトだ。
でも今回は大丈夫。なんてったって、普通に新薬開発の補助作業だって書いてあったし。何よりも、ここの病院にはガキの頃から何度も来たことがある。うん、平気に決まってる。
しかし、この間のあれは……今は思い出しても寒気がする。あの後、一緒に逃げたメンバーの一人と連絡を取ったのだが、信じられない話を聞いた。何でもそいつは、聖桜病院に電話で問い詰めたらしい。「あのバイトは一体何だったのか?」と。
すると、そんなバイトは募集していないと言われたという。まさか、そんなハズないだろう! 現に契約書だってあるんだと言ったらしいが、知らないの一点張りで結局はどうにも出来なかったそうだ。
俺たち以外のメンツはどうなったのだろう。
逃げ出さなかった他の奴らは、金を受け取ったのだろうか。
それともまさか、今もあのプールに――――。
――――ゾクゾクゾクゾクッ!!
……怖いので止めよう。きっとあれは、集団で騙されたか、夢でも見たに違いない。そうだ、そうに決まってる。自分に言い聞かせる。怖くない怖くない怖くない……。
受付に行き、バイトに来た旨を伝えると、愛想の良いお姉さんが対応してくれた。うん、この前の病院とは大違いだ。
「ではこのまま、3階に上がってください。3階受付で、案内いたします」
「はい」
言われるままに、俺は3階受付へと向かった。すると、どこかで見た顔が受付に並んでいるではないか。
「あれ? アンタ、この間会った人やん」
「アンタ! 無事だったのか!?」
そこにいたのは、数日前、あの世にも恐ろしい体験をした病院で出会った、都市伝説マニアっぽい男だった。数日前と変わらぬ、どこかしら興奮した雰囲気を持ち合わせている。見れば見るほど胡散臭い男だった。
「無事? ……ああ、アンタらほとんどが逃げ出しちまったもんな。この通り、ピンピンしとるで♪」
「なあ、あれ、一体何だったんだよ? マジで死体洗いの――――」
「しーっ。静かに」
男は人差し指で口を押さえるフリをして、にやにやと笑った。何となくムッとして見返すと、男は言う。
「都市伝説を疑ってしもうたら、もうそれを喰うことは出来ないで。噂はナマモノやから、鮮度が命なんや」
「どういうことだよ。噂がナマモノ? わけ分かんねえよ」
「要するに、タイミングが重要なんや。アンタはタイミングを逃してもうたから、もう喰えん。クックッ」
「む……」
カチンと来たが、男の言い方に妙な説得力が感じられ、俺は口を噤んだ。何となくだが、これ以上の深入りや詮索はしない方がいい気がした。こうして目の前の男が無事だったのだ。やっぱりあれは、ただの夢……いや、夢でなかったとしても、俺たちが思っているような「恐ろしい真実」などあるわけがない。ん? 恐ろしい真実ってそもそも何だ? 俺は一体何を考えているのだろう。
「おっと、順番が来た。アンタもここに、新薬のバイトに来たんやろ?」
「え、ああそうだけど」
そう言ってから、嫌な空気が流れているのに気付く。嫌な空気……というよりも、嫌な予感だろうか。そもそも、この男がここにいるということは……
「ククク……アンタ、天性の都市伝説好きやな」
「まさか、此処にも変な噂があるんじゃ……」
「クククク……報酬と比例した、素敵な伝説があるでー! くぅーっ、楽しみやぁっ!」
「……」
ここには、どんなおぞましい噂があるっていうんだよ……!!(汗)
――――――――
――――――
――――
――……
「では以上で説明を終わります。この後、誓約書にサインをしていただいた方から順に、投薬していただきます」
今回のバイト、新薬開発の補助作業とは、要するに「新薬の試飲」だった。健康を害するものではなく、健康増進の、いわゆる栄養剤系のものらしい。今までも何度も行われているらしく、俺たちの他にも若い男女が数十名集まっていた。
「……別に今回は、結構普通そうじゃねえ?」
俺の言葉に、都市伝説マニア野郎はちっちっと指を振る。……何だかすっげームカツク。
「……クックックックッ、そう言っていられるのも今のうちや。アンタ、こんな話知っとるかい?」
男は、誓約書をパラパラ捲りながら思い出話をするような口調で語り始めた。
「過去数回、このバイトは行われとる。それはさっきの説明にもあったし、真実や。俺の友人の何人かも実際に体験済みやしな。でも――――1つだけ明らかにされとらん事柄がある」
「明らかにされてないって?」
「つまり、病院が隠蔽しとる事実があるってことや。それは何やと思う?」
「隠蔽……ってことは、まずいことなんだろ、公になったら」
「ああ……このバイトの恐ろしさが明らかになるで」
ごくんっ……と唾を飲み込んだ俺に、男は顔を近付ける。
無駄にデカイ黒目の中に、俺が映っている。気味が悪い……。
「……行方不明者数名、謎の死を遂げた人間数名。全員、このバイトの経験者や」
「なっ……」
「そいつらは皆、このバイト後数日から数週間の内に行方不明になったり、死んだりしとる。ニュースに出てた奴もいる。まあ、病院の話は一切出とらんけどな」
「ハハ、そんなのただの偶然――――」
「ホンマにそう思うんか? ……誓約書読んでみい」
周りを見回せば、もうほとんどがサインを終え、看護婦から薬らしきものを受け取っている。そもそも、目の前の誓約書は100枚以上ある。こんなもの、一から目を通す人間なんているはずが無い。
「はあ? こんなの読んで、どうするんだよ。一枚一枚読んでたら、日が暮れるって」
「……それが命取りなんや。死んでもええんかい?」
「い、いいわけないだろっ」
「なら読んだ方がええよ。……お、ククク、やっぱりこう来たか。さて、俺は今回はここで降りさせてもらうで。ほな、さいなら」
「え?! あ、おい、ちょっと……」
「看護婦さーん、すんません。僕、やっぱり今回のバイトパスしますんでー」
男は近くにいた看護婦に適当な理由を言うと、ひらひらと手を振って去って行った。男の読んでいた誓約書は、開かれたままその場に置かれている。何となく気になって、男が読んでいたであろう箇所に目をやる。すると、驚くべき事柄が書かれていた。
「……何だって…………?」
誓約書のその一文、普通なら読み飛ばしてしまうような一文に、重要な言葉が綴られている。文字の大きさも他より小さく、注釈程度にしか見えないそれ。しかしまさに、今回のアルバイトの全てを握っているであろう一文に間違いなかった。
『――――投薬により、精神・肉体に何らかの異変・異常が起きた場合、当院では一切の責任を負いかねるものとする。また、当誓約書は、被験者に異常が見受けられた場合の調査・研究のための、身体提供を確約するものである。これは、いかなる理由があった場合にも適用され…………』
……危険だ。果てしなく、危険過ぎる。
いや、もしかしたらこれは、どんな誓約書にも書かれていることなのかもしれない。俺が今まで読んでいなかっただけで、どの誓約書にもそれなりに危険な一文は記されていたのかもしれない。
でも、さっきのエセ都市伝説野郎の言葉と、俺の第6感がここにいるべきでないと言っている……気がする。どうしてだろうか。何故そんな気になるのか、俺にはよく分からない。
分からないけど――――
「……すみません。俺、やっぱりこのバイトやめます」
自分の心に嘘はつけない。そう思って看護婦に断り、病室から外へ出た。すると、何やら外が少しだけ騒がしい。
「先生、被験者003が……」
「……仕方ない。いつものように」
「はい」
俺の目の前を、足早に通り過ぎていく看護婦と医師。何気なく見えた看護婦の手には、さっき俺たちに配られていた薬品。
「〜〜〜〜〜〜〜〜〜っ!?」
ありえねーっつーの!!!!(汗)
俺は声にならない声を上げ、その場に尻餅を付いた。その時、スッと隣から差し出された腕。思わず見上げると、そこには俺も何度か診察を受けたことがある、外科医がいた。
「城戸鷹司さんですね? あなたに是非、ご協力いただきたい仕事があるんです。かなり割の良いアルバイトだと思うのですが」
「バ、バイト……?」
「はい。当院の新薬開発補助のアルバイトに申し込まれていたようでしたので、他にもどうかなと思いまして」
「いや……俺はもう……」
――――バイトはいいです。
そう言おうとしたのだが、医師が先に「報酬は最低5万です。方法や部位によっては、10万〜50万くらいにもなります」と言ったのを聞き、俺は言葉を飲み込んだ。
50万……だって!? そんだけあれば、香月や美咲と旅行だって出来るじゃん!!
「や、やります!! 今からそれ、俺にやらせてください!!」
「良かった。中々な重労働ですからね。貴方みたいに若くて健康な方にしかお願い出来ないんですよ」
「重労働か……アハハ、頑張りますよ俺!」
「頼もしいですね。では早速こちらへ」
案内されたのは、普通の病室だった。そこには、俺の他にも数名がいた。しかし、何故か皆、怪我をしているらしい。
「いたたた……痛え……」
そう言って、腕に包帯をぐるぐると巻き付けた男が椅子に腰掛ける。その隣の椅子には、胸に包帯を巻き、苦しそうに息を吐き出す男がいる。ベッドの上には、足を釣られて頭に包帯を巻いた男が、つまらなそうな目で俺を見ていた。
「あの……」
「少しここでお待ちください。今、準備してきますので」
「はあ」
俺はどんな仕事をさせられるのだろう。もしかしたら、ここの病人たちの世話とか? 大の男たちを担いだりするのだとしたら、俺みたいな若い男が選ばれるのも頷ける。
「……なあアンタ。アンタはどこを希望してんだ?」
「え?」
椅子に腰掛けた、腕を骨折しているらしい男が話しかけてきた。
「どこを希望って……どういうことすか?」
「バイトの話だよ。アンタもバイトするんだろ? なあ、アンタはどこに挑戦するんだよ。俺はまあ、一番無難な場所を選んじまったけどよ、これで5万貰えるなら結構儲けたよな」
「はあ? 何かイマイチ話が飲み込めないんすけど……」
つい先日体験したような、俺だけ置いてけぼりな雰囲気が流れる。しかし、男はさして気にも留めず話し続ける。
「ほら、ベッドにいる男いるだろ? アイツは、何と2箇所だ。しかも、後頭部選択するとは……命知らずだよなあ、本当に」
「はあ……?」
「しかも、麻酔使わなかったらしいぜ? くわぁ……俺は流石に、あそこまで出来ねえよ」
「あの……本当に、一体何の話をしてるのか、俺にはさっぱりなんすけど」
「え? もしかして、何も知らないの?」
「はい、まったく」
「えぇ? それじゃ、此処にいたらマズイんじゃ――――」
「うああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!」
「なっ――――!?」
男の声を掻き消すような、耳を劈く絶叫が木霊した。しかし、驚いているのは俺だけで、他の奴らは特に何事も無いかのように飄々としている。
「あ、あのっ、何すか、今の悲鳴! 奥から聞こえてきましたよね!?」
「うわぁ、アイツも麻酔使わなかったのかよ……これだから、若い連中は嫌だねえ」
「いや、アンタも十分若いだろ! ……って、そうじゃなくて!! 一体このバイトって、何のバイトなんすか!?」
男を問い詰めていると、奥の部屋からさっきの医師が出てくる。彼は何事も無かったかのように、俺に笑いかけた。
「準備が整いましたよ。さあ、こちらへどうぞ」
「いや、あの、今のはっ」
俺の言葉など聞こえていないかのように、医師は部屋へと進んでいく。仕方ない……俺は意を決して、奥の部屋へと足を踏み入れた。
「なっ……」
部屋の中には、およそ病院には似つかわしくない物騒なものが置いてあった。金属バット、万力、出刃包丁、のこぎり、カッター、鉄球……と、危ないことこの上ない。そして、部屋の隅には、腕を押さえて震えている男がいた。
「ぐっ……うあぁぁ……っ……」
声にならないようなうめき声。しかし、医師は何食わぬ顔だ。
「しばらく我慢してくださいね。報酬は、口座に振込となります」
「は、はい……ぐぅ……」
「さて、城戸さん。貴方はどこの部位にしますか? 腕や脚は5万からですが、頭蓋骨ですと40万以上となりますよ」
「あ、あの……これって一体何のバイトなんですか……?」
「? あれ、ご存知ないですか? これは今流行りの、ほら……世間では『骨折バイト』なんて言われてるんでしょうか。アレですよ」
「こ、骨折!?」
「医学発達のために、人間の治癒過程研究の一環として始めたものでしてね。健康な成人男性の一般的な治癒速度、およびその過程を見せていただきたいのですよ」
震えている男の傍には、金属バットが転がっている。
……まさか、コイツがコレで……? 腕を叩き折ったとでも言うのか!?
そんなバカな……そんなことあるはずない……
「骨折って……どうやって……」
「方法は色々ありますよ。確実性を狙うなら、やっぱり万力がお勧めですね。バットだと、下手すると打撲程度になってしまう可能性があります。人間、一度恐怖心が生まれてしまうと、もう駄目ですからねえ」
「万力……?! バットって……!!」
「あくまでも、骨折した場合のみ報酬をお支払い出来る規則なのでね。打撲の場合は、残念ながら何もお支払い出来ないんですよ。そうなると、こちらとしても、アルバイトの方にしてもいいことはないですから…………城戸さん?」
「もうヤメてくれーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーっ!!!!!!!!!(泣)」
「あ、城戸さん!」
呼び止められて、止まれるはずがない。俺は耳を押さえながら、病室を飛び出した。
こんな病院、二度と来るもんか!!(涙)ちきしょー! どいつもこいつも狂ってやがる……!
「きゃっ!」
「すみませんっ!」
途中、看護婦にぶつかってしまったが、俺は止まれなかった。その代わり、俺は振り返って叫んでいた。
「お姉さんがまだまともな人間なら、今すぐ転職した方がいいよ!!」
「え?」
「病院ってところは呪われてるから!!」
そうだ、呪われてる!
ここの病院もあそこの病院も、全部全部おかしい!!
ありえないありえないありえない!!!!
逃げるように病院から転がり出た俺を迎えたのは、あのエセ気味笑顔だった。
「クックック、何や青い顔して、そんな素敵な都市伝説に出会えたん?」
「……アンタ一体、何者なんだよ」
「俺は都市伝説コレクターや♪ 都市伝説の真偽を探ったりするんが主な仕事やな」
「じゃあ教えてくれよ! あれは一体……あれは何なんだ? ただの、都市伝説じゃなかったのかよ?」
男はにやりと笑う。
派手な髪色が、日に透けて金色に輝いている。男の笑みは、どことなく凄みがあり、一見すると、ただのイカレ野郎にしか見えないが……もしかしたらそれは、創られたものなのかもしれないと何となく感じた。
「……都市伝説は、それを体験した奴にしか真相は語れん。アンタが何を見て、何を聞いたのか俺には分からへんから、何も言うことはできへん。アンタがどう思ったか。それが噂の真相で真実や」
「……そんな…………」
「全て夢幻かもしれんよ? もう一度見に行ってみたら、すぐに分かる。確かめてくればいいんや」
「……俺は、夢を見たんだ。そうに決まってる。第一、あんな怖ろしいことが、実際に起こっていいはずないんだ」
心よりも頭よりも先に口から出た言葉。
俺はこんな言葉を口にするつもりなんて無かったのに……気付いたら発していた。何故? 俺にはよく分からない。
「……そうやね。アンタがそう言うなら、きっとそうやったんやろね」
頷いた俺に、都市伝説野郎は笑った。
「アンタ、かなりの強運の持ち主なんやねぇ。道理で、上手い具合に潜り抜けられたわけや。アンタ、都市伝説コレクターの素質、めちゃめちゃあるで♪」
「何言ってんだよ。そんな素質、いらねえし!」
「なあなあ、一緒にコレクターやらへん? きっと俺ら、いいコンビになれると思うんやけど!」
「だーっ!! やるわけないだろ!! もう俺は帰る!! そして寝る!!! じゃあな!!!!」
「あ、待ってーな!」
「うっせー! 俺はもう、都市伝説なんか聞きたくもないんだよーーーーーーー!!!!!!」
しつこい男を振り切って、俺は駆け出した。
家に帰った俺は、ごろんとベッドに仰向けになった。途端に睡魔が襲ってくる。
「クソぉ……何なんだよ、あれは…………うぅ……(涙)」
数日のうちに俺が体験した、世にも奇妙なアルバイト。
あんなものが、普通に存在していること自体、都市伝説の極みのようなものだ。言ったって、誰も信じるわけが無い。むしろ、俺だってあれが真実だなんて思えない。あれは夢か幻で、俺はそれに騙されていたのだ。そうに違いないのだ。それしか考えられない。ありえない。
「はーあ……せっかくセレブな夏を過ごせると思ったのに……」
大きく溜め息をついた俺は、そのまま不貞寝を始めた。
夏休みまで、あと僅か。結局金の無いまま、夏休み突入かよ……。
「……あ”」
……忘れてた。明日から、補講地獄が始まるんだった。このままじゃ、バイトどころか夏休みの危機だ。
「うあぁ……レポート書かなきゃ……ぐはぁ」
アルバイトよりも何よりも、一番怖いのは勉強かもしれない…………。
そう思ったら、途端にぐったりと疲労が押し寄せてきて、俺は意識を手放した。
――――そして……
「どうしたんだよ鷹司、疲れた顔して」
「よお……今日も暑いな」
「……何だよ、どっか具合でも悪いのか? あ、補講疲れしてんだろ。だから少しは勉強しとけって言ったのに」
「香月……俺、とうとう美咲に汚染されたかも……」
「は?」
「毎日あの日の夢見るし、エセ関西人に付き纏われるし、もう俺は駄目だ……ぐはぁ」
「夢? エセ関西人? ……お前、マジ大丈夫か? 暑さで頭がイカレて――――」
「あ、鷹司! ちょうどいいところにいたー! あのね、超割いいバイト見つけて来てあげ――――……」
「うわぁーーーーーーーっ!! もう勘弁してくれ!!」
「へ? あ、鷹司っ!?」
「もう、バイトなんて懲り懲りだ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜っ!!!!!!(涙)」
――了――